昨日書いたものからプーランクが『ロカマドゥールの黒い聖母の連祷』を作曲した時のエピソードを連想した。
プーランクは、カトリックの家庭に生まれたが、17歳で父を亡くした時以来教会から離れた。
すでに天才的なピアニストとして頭角を現していたし、年齢からいっても時代(1916)からいってもまあよくあるケースである。
別に深い懐疑に捕らわれたとか、無神論イデオロギーにそまったわけではないだろう。同性愛者であったらしいので、それも教会離れを促したのかもしれない。
で、そのプーランクが、1935年に、数人の友人を亡くし、特に作曲家で批評家のピエール=オクターヴ・フェルーの死の後で、傷心を抱えて、中世以来の有名な巡礼地であるロカマドゥールを訪ねた。
そこで「黒い聖母」(実際は聖母子像だが)を見て、神秘の矢に射られたかのように劇的な回心を体験した。
その時に唱和されていた聖母への連祷(聖母よ、我らのためにお祈りください、というようなフレーズが少しずつ変化しながら延々と続くやつだ)を耳にして、その夜にすぐにそのテキストに曲をつけた。
というより、やはり、曲が「降りてきた」らしい。
オルガンのオーケストレーション部分は後から作っているから、女声合唱の部分が「霊感」で、楽器の部分が「技能」オンリーということになる。
プーランクという人は作曲技術については高度なものを学んだわけではないようだから、「直感」の部分は大きな意味を持っているのだろう。
もちろんその後もすっかり宗教曲づいて、ミサ曲や『カルメル会修道女の対話』のオペラも作曲した。
でも、自由闊達で遊び心もある洒落たエレガンスは変わらなかったので、宗教曲に抹香臭い荘重さを期待していた人々からは揶揄されることもあった。『
グローリア』がパリで初演された時はその世俗的な明るさが聴衆にショックを与えたらしい。
それについてプーランクは、その曲を作曲していた時にフィレンツェのリカルディ宮Benozzo Gozzoliのフレスコ画で隣にいる天使に舌を出している天使を見つけたことやサッカーをしているベネディクト会修道士のことを考えていたからだ、と書いている。
『ロカマドゥールの黒い聖母の連祷』の方は、さすがに、その日の「回心」体験のうちに「降ってきた」霊感がこめられているので「舌を出した天使の姿」は見られないが、想起するイメージにインスパイアされて曲想が決まるというスタイルは同じなのだろう。。
この
youtube の5分から6分頃に出てくる写真がその有名な「黒い聖母子像」だ。
いつもは服を着せられているのでよく見えないが、この写真では、わずかに腰をひねって右脇をあけ、左ひざに乗せた幼きイエスの隣にあいた形になっている右ひざに巡礼者を乗せて抱きとってくれるというイメージがよく分かる。
この巡礼地は中世ヨーロッパではエルサレム、ローマ、サンチアゴに並ぶ四大巡礼地で、奇跡の泉も聖母のご出現もないのに、黒い聖母の前に立つ人には必ず恵みがあると言われている。
今年は巡礼地1000年記念祭で、15日の聖母被昇天祭は盛り上がるらしい。
もちろんプーランクの
聖母の連祷コンサートが予定されている。 「回心」する人が目白押しかもしれない。