L'art de croire             竹下節子ブログ

『そして父になる』と『あなたに癒された私の魂』を続けて観た

土曜の夕方、近所の映画館で試写会を連続して観た。

最初の映画は、フランスでは年末公開の是枝裕和監督『そして父になる』だ。

今年のカンヌ映画祭では、ちょうど、同性婚法の成立(同性カップルによる養子も可能になる)をめぐってフランス社会が対立し緊張していた時期に、少女たちの同性愛を描いたフランス映画『アデルの人生』がパルム・ドールを受賞した。

「アート」=「自由」=「偏見と因習の打破」というある意味で短絡的な意思表示がそこには見える。

で、まるでそれに対抗するかのように、家族に危機が訪れても離婚という選択肢はなくて夫婦と子供の生物学的関係にこだわる姿を描いたこの是枝映画に、プロテスタントとカトリック教会の関わるエキュメニカル特別表彰が(審査員賞とは別に)贈られたのだ。

分かりやす過ぎる。

土曜の試写会上映の後のディスカッションで、日本の家庭について父親が働き過ぎるとか、子をどうするかについて父親が決定することの違和感、母親が従属しているなどのコメントが上がったが、私は正直、「フランスの家庭の標準は離婚か婚外子かステップファミリーでしょ、あんたたちにあれこれ言われたくないね」と思った。

実際、この映画では、勝ち組とか負け組とか、都心のマンションに住む一流企業のサラリーマンに専業主婦のカップルと、地方都市に住む電気屋の主人とパート主婦のカップルがまるで格差社会の対照的な世界のように描かれているけれど、フランスに目を向けると、パリやその周辺では移民も多いし、国や肌の色の違う子供を養子にしている普通の夫婦もかなりの数に上る。

婚外子は半数以上だし、結婚しないままステップファミリーを形成してはまた別れる人もほとんど「普通」の状況だ。
エリートや裕福な人ほどむしろ抵抗なくどんどん子供を生むし養子縁組に向かったりする。

この映画の親たちは「子供は大きくなるほどだんだんと生物学的な親に似てくる(から今のうちに交換した方がいい)」と勧められる。

でも、複数の子供を持つ親ならだれでも、同じ親の子を同じ環境で育てたはずなのに実はどの子も全く違うこと、性格はもちろん、見た目や体質までばらばらであることを実感しているだろう。
血のつながっている親子間での「期待」と「失望」のドラマは、別離や養子との葛藤よりも深刻になることさえある。

それなのに、この映画では、主人公の両親が離婚していることがトラウマになったとか、子供の取り換えを行った看護師が子連れ男との再婚生活がストレスになったのが犯行動機だったとか、すべての不幸は「実両親がなかよく子供を育てない」ことに起因するかのように語られていたのがむしろ不自然だと思った。

キリスト教系映画組織から表彰されたのも不思議じゃない。

でも、そもそも、イエス・キリストは処女受胎のシングル・マザーから生まれて血のつながっていない大工のヨセフに育てられたのだけれどね。

ともかく、そういう日本映画を観た後で、次に、

François Dupeyronの『Mon Ame par Toi Guérie』(あなたに癒された私の魂)

を観たので、けっこうカルチャーショックを受けた。

この映画は監督自身が書いた本

『Chacun pour soi, Dieu s'en fout 』(自分のことは自分で。神さまはかまってくれない)

を元にしたもので、フランスの地方に昔からあるフォークロリックな「治療師」guérisseurがテーマだから、非常に興味があった。

今でも、地方に行けば子供のイボとりはもちろん、こじらせた風邪だの治らない腰痛や膝痛や、医者に見離された難病などを先祖代々「手当て」によって治し続ける人々がいる。首都圏でも検索するといろいろ出てくる。

「医療行為」として認定されていないので基本的に無料で、普通の仕事の合間に引き受ける。

しかし公立病院の救急科だって、傷の痛みをとるための遠隔治療をする治癒師の連絡先を備えているのだ。

理屈は分からなくても実際痛みが消えるケースがある限り、こういう認知のされ方続いていくだろう。
特に子供にはよく効くと言われている。

この映画の主人公フレディはそういう治癒師だった母親からその力を受け継いでいるのだけれど、それに納得して使うことに抵抗がある。自分自身に癲癇の持病があるからだ。

フレディは中年の庭師であり、トレーラーハウスに住んでいる。彼の周りにいる登場人物もみな貧しいが、日本映画に出てくる貧しさと一番違うのはアグレッシヴ、つまりみな攻撃的だというところだ。

男も女もみんな、実によく、泣き、わめき、罵り、怒鳴り合う。

フレディも離婚しているか別居していて、13歳の一人娘を時々あずかっているのだが、娘の母親が訪ねてくると激しい口論が始まる。

死んだ母親の住んでいたうちを訪ねて母の連れ合い(Jean-Pierre Darroussinがすばらしい)と話すが、彼はもちろんフレディの父ではない。妹も生活苦にある。

みんな不幸でみんなが攻撃的で貧しくみじめたらしいこの映画の世界。

これに比べたら、『そして父になる』の世界は、前橋の子だくさんの小さな家の中のシーンでさえ、つるりとして清潔で穏やかに見える。みんなが小ぎれいで、みんがそれなりに安心して消費行動を続ける健康で家族愛に満ちた世界だった。

格差社会と言っても、『そして父になる』に出てくる二家族の階層差など、『あなたに癒された私の魂』の世界と、たとえばこの前の記事にアップした『自転車のアルセスト』の世界という二つのフランスの乖離ぶりとは比べものにならない。

そんな世界の出来事だから、フレディの行う「治療」にだって、何のスピリチュアルな意味づけもない。

彼は神も信じていない。

母親から受け継いだ治癒力という賜物を、人から頼まれるままにアプリケートするだけだ。

もともとフレディが自由を感じるのは、オートバイで駆けている時だけだった。

ところがそのオートバイで犬をさけようとして子供を轢いてしまう。

生死の狭間をさまよう子供を前にして、その罪の意識が彼を、自分の賜物は多くの人の利益に供れなければならないという受容に導いたのだ。

彼は人を癒しているのが「自分の手」だなどとは思っていない。

自分の手が取り次ぐ「何か」なのだ。

それが彼には見えない。

この映画では、逆光の撮影がふんだんに使われる。

フレディは、自分の前にある影しか見ていないのだが、太陽は背後から光を放っているのである。

こんな話を思い出す。

ある子供が、うっとりとお月さまを見あげながら

「お月さまって大好き、だって、明るくて、夜を照らしてくれるのだもの」

と言った。親が聞いた。

「じゃあ、お日さまは ?  お月さまよりもっとずっと明るいだろう ?」

「あら、お日さまなんて、昼間に出ているんだもの、必要ないわ」

というものだ。

実際、太陽を肉眼で見ることはできない。

そして、夜の闇を照らしてくれる月の光は、太陽光を反射しているのだ。

フレディは、神を信じないと言う。

原作の本のタイトルは

『自分のことは自分で。神さまはかまってくれない』

だった。

映画のタイトルは

『あなたに癒された私の魂』

で、「あなた」にあたるフランス語は神を連想させる大文字の親称である。

そして、

癒されるのは、

いつも、

魂。
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by mariastella | 2013-09-23 02:28 | 映画
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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