L'art de croire             竹下節子ブログ

ベルトラン・タヴェルニエの新作『Quai d'Orsay ケ・ドルセイ (外務省)』

ベルトラン・タヴェルニエの新作『Quai d'Orsay ケ・ドルセイ (外務省)』(Thierry Lhermitte、 Raphaël Personnaz 、Niels Arestrup)を最近観た。監督とディスカッション付きの上映会だ。もう70歳をいくつか越えて大御所になったタヴェルニエに会ってみたいと思い立たなければ、コミックを原作にしたこの映画は特に見るつもりがなかった。

でも、行って正解だった。ついでにハードカバーコミック(BD)の特別版も購入して監督にサインしてもらった。

後でコミックを読んだら、これを一読しただけで映画化を考えたという監督の描いたイメージがよく分かった。

特にモルパのキャラ。この人だけが、実際にすべてを把握し、すべてを動かし、冷静沈着で、外的なパフォーマンスというものをまったく考えていない。その役にNiels Arestrupを起用したのは驚くべき選択で、タヴェルニエはいつも役者に今までのキャラとまったく違うものを与えるのが好きなのだと言っていた。
いつもと違って口数が少なく独特のカリスマ性だけでそこに「いる」というモレパを演じている間、Niels Arestrupは他の俳優たちから離れてぽつんと自分の世界にいたそうだ。

この原作のマンガというのがChristophe Blain 作画で Abel Lanzacのシナリオなのだが、その Abel Lanzacはなんと実際にドミニク・ド・ヴィルパン首相のために演説原稿を書いたAntonin Baudryのペンネームであり、マンガで起こることは全て本当に見聞したことなのだそうだ。

もちろん外務省は、フランス市民の税金で雇われた役人たちが公益のために働いている場所なのだから、プライヴェートなゾーンというのとは違う。
それでもこれだけ赤裸々な人物描写をマンガや映画にできるのがすごい。

しかも、ハイパーアクティフでいつも舞い上がっているナルシスティックな怪物として描かれているヴィルパン本人も、現職の首相や外相も、みな映画を見ているというのがまたすごい。私はヴィルパンがこれだけカリカチュラルに描かれていればさすがに鼻白むかと思ったが、「いや実際の私よりも落ち着いて描かれてるね」と感想を述べたそうだ。彼はユーモアのセンスがある、とタヴェルニエが言っていた。

ヴィルパンをモデルにした外務大臣が入ってきただけで風が巻き起こって紙が飛ぶというシーンはさすがに戯画化されているのだが、実際、ヴィルパンは物質的なことが頭になく、食べない、寝ない、食べることにも眠ることにも興味がない。ノーベル賞作家が政治の話をしたかったのに文学の話を一人で滔々と述べたてて、相手に話させろというメモが回ってきたエピソードも実際に会ったそのままだそうだ。

いつも燃え上っていて、いつジョギングに飛び出るのかも分からない。

2002年から2003年にかけてアメリカがイラク侵攻を画策していたころフランスが断固として反対し、ド・ヴィルパン外相が国連で歴史的な演説をした時、当時ブッシュの顔がTVに出てくるだけでも気分が悪くなった私には、ド・ヴィルパンは爽やかで格好良く見えた。背が高くやせ形のスポーツマンでエリート外交官でありながら妻がアーティストで美男美女の子供たちがモデルなどをしているという自由な感じも素敵に見えた。ブッシュへの嫌悪の解毒剤は私にとってシラクではなくド・ヴィルパンだったのだ。

その後で首相になった時も好意的に見ていたのに、内政でつまずき、大統領選でも敗れ続け、気の毒な気がしていたが、私の持つ好感は変わりなかった。

それが・・・この映画で見られるほとんどパラノイアックな唯我独尊の舞い上がりぶりが、ほぼ事実だというのだから・・・100年の恋も醒めた感じだ。
しかも、「まさか」、という感じではなくて、「ああ、そうなのか、こういう舞台裏とあの頃の公のパフォーマンスの出来は完全に一致するなあ」、と納得だ。

それにしても、あからさまにクロアチアやデンマークを軽視していたり、当時防衛大臣であったMMAを蔑視しているような発言ももろに出てくる。

映画の中で、フィクションとして付け加えられたのは若い原稿書きの同棲相手が小学校の先生というシチュエーションだ。不法滞在で追放されようとされている移民の家族を救ってほしいと、トイレで頼まれた外務大臣が忘れずにアレンジしてくれることになっている。

実際のヴィルパンもジェーン・バーキンが二つの移民家族の窮状を訴えたらすぐに解決してくれた実績があるらしい。英雄的な情熱の炎にいつもあぶられていたが、小さなしめやかなエピソードに対して具体的に対応するのもこの人の特徴だったとタヴェルニエは言う。

フィリップ・ノワレが亡くなる前にはその病床に毎日通って、話をしたそうだ。

タヴェルニエはモルパの実物と話してやはり感動したそうだ。

モルパは全てを把握していた。ある大使が「もしこれを読まなかったらシャンパンひと箱を送らせる。」とためしに電報を送ってみたら、翌日「シャンペンを送れ」と返信が来たそうだ。また歩く時には、絶対に人の前を行かず、忘れ物をしたなどと理由をつけては必ず後ろについた。

執務室ではシャルトルーの猫を前任者から運動靴や家具といっしょに引き継ぎ、外務省には自分で運転する小型車で通っていた。8時半から午前3時までいつもいた。

みなが週80時間勤務の実態だそうだ。

2006年までは省内で喫煙できた。今は中庭に喫煙コーナーがあるが撮影のためにそれを取り除いた。ただし当時も、ヴィルパンやモルパの前では誰も吸わなかった。

いつも腹をすかせる大男が出てくるが、実際はもっと大きくて2m6あったそうだ。実際のヴィルパンも映画の役者より大きい。

主人公の若者も映画の設定のようにENAではなく、もっと伝統的エリート校であるポリテクとmineを出ている。

みんなキャラが立ち過ぎだ。

しかし、世界を相手にする外務省では、時差があるから24時間営業でハイパーアクティフでないとやっていけない。

日本のイメージでは外務省というと優等生的な官僚主義という気がしていたのだけれど、フランスの外務省はアクロバティックなサーカスみたいだ。

私は昔日本を担当していた友人が外務省にいたので、時々ケ・ドルセイに寄ったことがある。彼のところには朝X新聞が取り寄せられていて、それに毎日目を通さなければならないはずだったのだ。で、一か月分たまる頃に、なんだか新品の新聞をもらいに行っていた。まだインタネット版など存在していない頃の話だ。
それにうちで目を通すと、今度は、日本に派遣されている宣教会の人で「一年間の里帰り」中の修道士が、「日本語を忘れないように」と称してうちに取りに来るのだった。日本とフランスの距離は遠かった。でも、今でも、フランス外務省の中では日本は遠い国なのだろうなあという気がする。

でも、私はこういう内部情報を堂々と当事者がマンガにしたりそれが映画になったりするフランスという国が好きだ。

日本でもアメリカでも、それぞれ別の理由であり得ないことだと思う。

そう言えば、最近、アフガニスタンに派遣されていた軍人ブリス・エルブランの書いた戦争のトラウマについての本が出た。『Dans les griffes du Tigre.Lybie-Afghanistan 2011』(Les Belles Lettres)

その人は士官学校を出たエリートで、自分のなすべきことはよく理解していたし、使命も心得ていた。2011年3 月、最初に人を殺したのがアフガニスタンの砂漠で、2人の武装テロリストが潜伏している場所を教えられてタイガー戦闘ヘリコプターで近づき、攻撃した。
31歳のエリート職業軍人である。

その時彼は動揺した。自分は、敵に襲われているフランス人を救うために防衛しているのではなく、ただ敵を攻撃しているのだ。

フランス軍は攻撃についての規制が非常に厳しいのが有名である。

アフガニスタンでアメリカ人の攻撃ぶりを見てみな批判的になっている。
このことは第二次大戦の終わりごろからのフランスの「常識」で、ノルマンディでもパリ近郊でも、フランスを占領しているドイツ軍からフランスを解放するという目的にしろアメリカ軍から無差別に近い爆撃があちらこちらであったので、フランスの多くの一般人が犠牲になった。フランスで第二次大戦の市民の戦死といえばほとんどがアメリカ軍の爆撃によるものだ。もちろんそれはあまり語られないし、アメリカは犠牲者や町の破壊については戦後にちゃんと「金で保障」している。

ともかくそんなフランス軍にとっては、アフガニスタンでアメリカと共に戦うだけですごいストレスになっているわけだ。そして、砂漠の岩の下に潜伏していた二人の「テロリスト」を軍の命令によって殺した戦闘機パイロットのエルブランは大ショックを受ける。10日後、カブールで休養しているとき、毎夜、悪夢に悩まされ、自分が岩の下にいてヘリコプターが襲ってくる場面を反芻する。軍付の心理学者はそれは相手を自分に置き換えるよくある現象だと言い、軍付司祭も慰めてくれる。

けれども、エルブランには自分のPTSDが理解できない。自分が特別弱い人間だとは思えないからだ。実際、同僚と同じようなトラウマを語り合うこともあった。直接の理由がないのに先制攻撃をして誰かを殺せば、人は必ずトラウマを負うのだ。

エルブランはその後、リビアにも転戦し、合計50人ばかりの命を奪った。彼には4人の子供がいる。殺した敵やその家族、子供たちのために祈らないではおられない。彼は自分が兵士としての使命を果たしたこと、国に奉公したこと、必要悪だったこと、を自認している。しかし、自分を赦すことは難しい。義務という名のもとに精神の平安は保てるが魂は赦しを求めている、と言う。

もう「普通の世間」との溝は埋まらない。フランスに残っている人、軍人ではない人、形而上的な悩みから切り離されて個人主義と消費主義の刹那に生きている人たちの間には戻れない。

彼は今でも現役の軍人でパリに戻り階級も上がっている。しかし、これらの戦争の名における殺人のトラウマについて証言して出版した。すると、なんとインドシナ戦争の退役軍人からも、恐れや死や悪夢について描いてくれたことを感謝された。

注目すべきなのは、このことについて、出版に圧力がかけられなかったばかりではなく、軍から一字の検閲もなかったという事実だ。

そしてこのような実存的であると同時にタブーの問題について言語化能力に優れている軍人がいること、文章にエレガンスがあることも含めて、いかにもフランス的だと思う。そして、そういうところが、フランスで私の一番好きな部分だ。

ヴィルパンはラッキーだった。2002年のヴィルパンが掲げた燃え立つ十字軍の旗は、イラクの派兵にではなく、派兵を強行しようとするアメリカを阻止するための言葉の武器の十字軍の旗だった。

人は、人を殺さないために戦ってほしい。
兵士に敵を殺すことを命令しないために戦ってほしい。

そこにハイパーアクティフな理想主義者と、剣をより強いペンをふるえる書き手と、冷徹なワークホリックな官僚らのキャラが集まって火花を散らすのも、悪くない。
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by mariastella | 2013-12-22 04:56 | 映画
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