L'art de croire             竹下節子ブログ

ラニ・マサラの『ジラファーダ』

映画『ジラファーダ』Giraffada  監督Rani Massalha

少し前になるが、来年4/30に劇場公開される『ジラファーダ』というパレスティナが舞台の映画の試写会に行って、その後で、これが監督一作目のRani Massalhaと話す機会があった。

彼はパレスティナからフランスで亡命してフランスで育った人だ。この映画はいろんな意味ですごくよかった。

この映画と同じフランコ・アラブ映画フェスティヴァルで最初に見たサウジ・アラビア映画の感想を書いたが、それと同じようにこの映画も、子供の目を通して描かれていること、そして暴力シーンがないことが共通している。

暴力シーンがないといっても、イスラエルによる空爆シーンはあるし、主人公の少年が他の少年に殴られたりするシーンもあるのだけれど、監督が「血糊」などを調達する予算がなかったというだけあって、血が流れないのはいい。

この映画の前に同じパレスティナのドキュメンタリーでこれはアカデミー賞でも評価された映画『壊された五つのカメラ』もディスカッション付きで上映されたのだが私は見に行っていない。
イスラエルが隔離壁を築いたヨルダン川西岸地区の村で生まれた子供の成長を記録しようとする父親のカメラがそのままイスラエル兵士による暴力の支配の記録になっていて、これを見たらかなり情緒的に善悪の二元論的評価をしてしまいそうだったからだ。

実際、イスラエル軍が村人を助けようとしているシーンもよく見ればあるらしいのに、バイアスがかかりまくりの編集で見ていられないというコメントも読んだので、フランスのような国では上映後のディスカッションがかなり政治的になりそうな気がした。

この『ジラファーダ』はジラフ、すなわちキリンにインティファーダをかけている。キリンを通したレジスタンスというわけだ。

イスラエルの植民の進むこんな地域に動物園があるということ自体にもびっくりしたが、そこにイスラエルの空爆があった時、キリンがパニックに陥って柵に首を突っ込んで死んだという実話があり、この映画はそれにインスパイアされて作られたものだそうだ。

動物園の獣医ヤシンは息子と二人暮らしで、この息子が、動物園にいるキリンのカップルに夢中で毎日餌をやるなど熱心に世話をしている。

それなのに爆撃のショックでオスのキリンが死に、残ったメスも餌を採らなくなる。弱っていくメスが餌を食べますようにと神に祈る少年は自分も食事を摂らなくなった。

その前に、農家に馬の難産で呼び出されたヤシンが奇跡的に母馬と仔馬の命を救うエピソードがあり、一緒に行った息子が馬の命を救ってくださいと神に祈るシーンがある。馬の飼い主はヤシンに払う金がなくてオリーブをもらってもらう。
帰り道で息子は片足とびで歩いている。何をしているのかと問う父に、「さっき神さまに馬の命を救ってとお願いした時に、助けてもらったら片足で帰りますと約束したのだという。
お祈りは取引の一種だから、自分も何かを犠牲にするべきで、そうやって願いをかなえてもらえたことがよくあるのだという。

そのような伏線があるから、キリンが食べなくなった時に少年がハンストした意味が分かる。

少年の母は少年を生むときに産褥で死んだ。それもこれもイスラエルの強権支配のせいで金も施設も薬も不足しているからだ。

獣医のヤシンは、フランスの女性ジャーナリストに頼んでエルサレムの獣医仲間からキリンのための薬をもらってきてもらう。

しかしキリンは相変わらず食べない。

父親とジャーナリストが接近するのを見た少年は嫉妬も手伝って父親を拒絶するようになり、ある戒厳令の夜に家を出て帰ってこない。

父親は探し回り、イスラエル兵に誰何されて殴られ医療鞄を投げ捨てられる。

この映画でもイスラエル兵は暴力的なのだけれど、彼らの方も本気で自爆テロを怖がってヒステリックになっているのが伝わってくる。
暴力を生むのは恐怖なのだ。

実際子供に至るまで、誰が爆薬を体に隠し持っているかわからないような地域で警備に当たるのはすごいストレスだろう。

しかも普通の兵士たちは、職業軍人ではなくみな徴兵された若者たちだ。
このことは上映の後で監督も言っていた。
イスラエルの若者は全員が18歳から21歳まで兵役につく。その間、実際にパレスティナの自爆テロで死ぬ人もいる。テロをする側もインティファーダで投石する子供たちがそうであるように、素人がほとんどだ。
つまり素人が命を懸けて攻撃するのを、徴兵された普通の若者が警備に当たる。

恐怖とパニックの連鎖だ。

監督はイスラエルにも多くの友人がいて、エルサレムや近郊にも滞在している。

彼がショックを受けたのは、ガザ地区などで起こっている毎日の緊張、恐怖、暴力とはまったく別世界の自由と幸せをイスラエル人たちが浜辺で謳歌しているように見えることだ。

しかし、実は、彼らは皆、兵役中にトラウマを受けている。で、兵役が終わると皆がこぞってインドやタイに出かけて魂をリセットしてから戻ってくるのだそうだ。

昨日の記事で紹介したフランスの職業軍人のトラウマ処理法とは対極にある。

話を映画に戻そう。

戒厳令の夜、少年は幸い、動物園でコーンを売る屋台の老人に見つけられて老人の家に入れてもらう。彼の家には電話もないのでヤシンに連絡はできない。 

そこで少年は自分の悩みを老人に話し、キリンを救ってもらうために神さまに願をかけて食べない決心をしていることも告げる。

すると老人はコーランに出てくる「ノアの方舟」の話をする。あるときアラーは怒って大洪水を起こすことを決めたのだが、ノアに、義人たちとすべての動物を一つがいずつ方舟に乗せて救うように言った。アラーは命を大切にしたのだ。

「動物はみんな?」

「ああ、みんなだ」

「蚊も?」

「蚊もだ」

「アラーは、怒った、怒っても殺さなかったんだ・・・」

「そうだ、だから命は神さまにした約束よりも大切なものなのだ」

翌朝、老人は少年を父親のところに送り届ける。

少年ははじめて少し食物を口にした。

少年はメスのキリンのところに行く。リタ(キリンの名前)は相変わらず食べようとしない。

「ねえ、リタ、僕は少し食べたんだ。リタも食べておくれ」

深刻な顔の父親がリタの腹に聴診器を当て、じっと聴いていたが、突然、表情が変わる。

「妊娠している」

父と息子に突然幸福感が漲りあふれるのが分かる。

闇にさす光のように、映画を見ている客席にも同じ幸福感と喜びが貫いた。

外に兵士がいても、爆撃があっても、多くの人が犠牲になっても、キリンが妊娠していると聞いただけで、魂の根っこに天からの慈雨が降り注いだような感じになる。
獣医である父の喜びも少年の喜びも一瞬にして共有できる。

カタストロフ映画などで登場人物がほとんど全滅するのに最後に生き残った女性が妊娠していた、という安易なハッピーエンドを使う例があるけれど、ストーリーテリングがうまければ、キリンの妊娠でも、

「そうだ、だから命は神さまにした約束よりも大切なものなのだ」

という老人の言葉が歓喜と共に裏書きされたのが分かる。

しかし物語はこれで終わらず、リタは相変わらず餌を食べない。

このままだとリタも胎児も一緒に死んでしまう。

リタをPTSDの鬱状態から救うには死んだオスの代わりに別のキリンを与えてやらなくてはいけない、と皆が直感的に思う。

他に方法はない。

アフリカ経由などまともなルートでは間に合わない。

ことは一刻をあらそう。

結局、ヤシンはやはり知り合いの獣医がいる別の動物園に連絡し、キリンをエルサレムに運ぶワゴンを用意してくれという。

ヤシンと息子はフランス人ジャーナリストの車のトランクに隠れて検問を突破した。帰りは山間の道を通ってチェックポイントの閉まっていないところを経て戻らなくてはならない。

動物園には6匹のキリンがいた。少年はすぐにリタにぴったりなキリンを見つける。

「この子だ!」

ヤシンの友人である獣医がワゴンをつないだ車を運転して動物園を出なくてはならない。

彼はヤシンたちがエルサレムからの要請ではなくて、ヨルダン川西岸地区にキリンを拉致するつもりであることを知る。

獣医は顔色を変える。

ヤシンは、武器を持って脅されたと言えばいい、と言う。彼らが去った後でキリンの盗難を通報してくれと。

それから三人と一匹の逃避行が始まる。イスラエルの植民地区では植民者がみな武器を持って警戒している。途中でガソリンもきれるが、ヤシンに家畜を救ってもらった農場が近くにあったのでガソリンを補給してもらうことができた。しかし、その間、一人でキリンのそばについていた少年が植民者に見つかり…

といろいろあってようやくチェックポイントにたどり着いたら、ゲートは閉じられていてワゴンを通す幅はない。

少年は絶望するが、ヤシンは「残りは歩いていこう」、という。

ワゴン車から降ろされて優雅に進むキリンと、その後を歩く少年と父と、彼らのために危険を冒したジャーナリスト。

シュールな光景が続く。

張り巡らされた壁の前を進むキリンの優雅なシルエット。

このために監督はキリンを選んだのだという。

このシーンはロケではなくてスタジオの中で撮影したと言っていた。

それから彼らの一行は町の中を動物園に向かって進むのだが、このシーンもまったく素敵な童話のようで感動的だ。少年はキリンをリタのところに誘導する。しかし、通報を受けたイスラエル軍が動物園に来てヤシンは逮捕され、連れ去られる。

やがて、少年の姿とキリンの子供の姿が映り、少年のモノローグがエンドロールに続く。

もちろんこの話はフィクションなのだが、ともかく、盗んだキリンも返還されずにすんで、一応のハッピーエンドになったわけだ。

上映が終わった後で、あの父親はその後どうなったのか、と客席から、ある少年が監督に質問した。
みんなが内心気になったことだ。

すると監督は、

「ぼくは、彼がすぐにではないけれど釈放されたと思う」

と答えた。

この答えに私はすごく好感をもった。

というのは、実は、このフランコ・アラブ映画祭で、サウジアラビアの映画とこの映画のほかに私はもう一つの「子供を主人公にした映画」を見たのだが、後味が悪かったからだ。

その映画はHicham Ayouch監督の『Fièvres』(熱)と言うもので、ある意味でなかなかの名作だった。

つまり、人間がよく描けていて、カメラワークもシナリオも絶妙で主人公の少年やその父や祖父母なども名演としかいいようがないからだ。

それなのにすごく違和感があり、気分が悪かった。それがなぜなのかすぐには言語化できなかった。

けれど『ジラファーダ』を観た後で、その理由が分かった。

『Fièvres』という映画のメッセージは私の「信ずるところ」に反するものだったからだ。

『Fièvres』の舞台はパリ近郊にある半ばゲットー化した団地である。

パリの母子家庭の少年がいて、母親が逮捕され懲役に服すことになったので養護施設に入れられようとするが、母親が父親の名を明かす。父子関係が証明されて少年は父に引き取られることになる。父カリムは、アルジェリアからの移民一世である自分の両親と住んでいる40男だ。失業はしていないが、何の希望もなく建築資材をあつかう肉体労働をしている。

彼らにとってカリムの息子の存在は寝耳に水だった。

しかも、バンジャマンというキリスト教の名前を持っているというのだ

「でも、私たちの孫だから」とカリムの母は少し希望をもったように言う。

父系主義のアラブ家庭では、カリムが独身で子供もいないことは将来の先祖の供養もできないという無言の絶望の種になっていた。実はカリムには弟がいるのだが、事故で心身に重い障害を負って施設に入れられている。引退しているカリムの両親が故郷のアルジェリアにまだ帰れない理由の一つはこの息子の存在だ。定期的に訪問する母親は、うつろな目で涎を流しているこの息子の伸び放題の髪を洗ってやったり梳かしてやったりいつくしんで世話をする。カリムだけはなぜか行かない。

で、このバンジャマンというのが、学校には行かないわ、建物の壁にスプレーを吹き付けて落書きするわ、喧嘩をするわ、ひどい子供で、キッチンから包丁を取り出して父を刺し殺そうとまでするシーンもある。

祖父母にも叱られるのだが、祖父に向かっても、「自分の母は淫売だ、お前の息子は淫売と寝たんだ、アラブと寝るなんて淫売しかいない」などと毒舌を吐く。

まあ、いろいろあるうちに、この子供がさぞや不幸な子供時代を送ってきたのだろうと察しはつくし、それでも、祖父母や父といるうちにたまに子供らしいところを見せたり、だんだんと強面で挑発的な態度が薄れて角が取れてくるのも分かる。

施設にいる「叔父さん」のところにも行って、はじめは驚くが、楽しそうに車いすを押したりする。どん底からサバイバルして世界中に喧嘩を売っているような子供にとっては、心身障害の弱者のそばにいる時が一番警戒を解いて子供らしくなるのかもしれない。

で、それまで強権の父親のもとである意味でいつまでも「息子」として服従しながら生きてきたカリムも、突然現れた自分の息子に手を焼いているうちに次第に「父親」として目覚めてくる。

で、ある日、カリムはバンジャマンに彼の一番のつらさ、秘密を教えてしまう。

それは、弟を障碍者にした事故の責任はカリムにあるという事実だった。その罪悪感がカリムの人生までも生きながらにして葬っていたのだ。

で、ラストの場面は、血の付いたナイフを握っているバンジャマンと、無抵抗に刺されて血まみれで横たわっているおじの遺体。

これだけなら、まだ、暗くて救いのない映画だが、強度があり、人間性や社会についてのさまざまな問題を突き付けてくる名作だとも言える。しかし、私は納得がいかなかった。

すると、上映後、バンジャマンと同じ年恰好(中学一年くらい)の少年が監督に「バンジャマンはなぜおじさんを殺したのか」と質問した。

監督は、

「私にもわからない。答えはない。みんなに答えを考えてもらいたい。君はなぜだと思う?」

と答えた。

質問した少年は「叔父さんがいつもへべれけだったからだと思う」と答えた。

監督は

「君がそう思うならそれが答えだ。そうバンジャマンはおじさんがいつもラリッっているから殺したんだね」

と言った。

すると後ろの席から、ある中年女性が「そのような答えはスキャンダラスだ、私には承服できない」と叫んで、席を立って出て行った。

私はその時点で、まあそんなに目くじらを立てるのも大人げないなあ、と思っただけだった。

バンジャマンは映画の終わりの方ではじめて父親の苦悩を理解して、このおじさえいなくなれば皆が解放されるのだと短絡的に思ったのだろう、あれはバンジャマンが生まれて初めてした愛の行為、犠牲の行為だったのだろうというのは分かった。しかしそれが別の形でまたこの家族の不幸を増幅するのだという想像力がこの少年にはなかったのだ。

ところが、女性が憤激して出て行った後で、監督は

「この映画で一番伝えたかったのは、行動を起こす、行動に移す、ということだ。ご覧になったようにバンジャマンは一人で戦闘行為をしている。自分を取り巻くすべてのもの、社会、不運、不公平などすべてに宣戦布告をしているのだ。我々は語るだけでアクションを起こすということをしない。そのような欺瞞をバンジャマンは許さない、少なくとも彼は行動した」

と語った。

それだけならまだいいのだけれど、その後に彼は私にとって驚くべきことを付け加えた。

「私はバンジャマンの行動を見るとき、ローマ兵のエピソードを思い出す。それはこういう話だ。あるローマ兵士が戦闘に出発する時に彼の妻が乳飲み子を抱いてやってきて、『あなた、戦争に行かないで、この子を置いて行かないで』と訴えた時、ローマ兵は妻の手から幼子を奪い取り、壁に叩きつけて殺してから、さあ、これでいいだろう、と言って出征した、という話だ」

先に質問した少年のように、会場には中学生のグループもいる。

監督のこのエピソードから、「人は戦うべき時には非情になっても戦うのだ」というメッセージを受け取った子供もいたに違いない。

そんなこと言うべきではない。

ローマ兵には乳飲み子を母から奪ってたたきつける権利はない。
子供の命は彼の所有物ではない。

そんなメッセージを中学生に送ってはいけない。

で、その十日くらい後に『ジラファーダ』を観たのだ。

パリの近郊の少年の境遇は母子家庭といい、移民の家族といい、決して楽なものでないということは分かる。しかしパリの近郊に爆撃機は飛んでこないし、戒厳令もなければ兵士に殴られることもない。

『ジラファーダ』では、イスラエルの強引な植民政策によって土地を奪われ、貧困と物不足にあえぎ、尊厳を傷つけられ爆撃を受ける厳しい暮らしがあるが、そこで生きている父子家庭の少年は父の愛を受けて育っていて、キリンに愛を振り向けている。

そして少年も映画の観客も、キリンが妊娠したという話だけで思わずうれし涙が出てくるのだ。

そこでのメッセージは、老人が少年に言ったこと

「命は神さまにした約束よりも大切なものなのだ」

である。

私は若い世代にこっちのメッセージに耳を傾けてほしい。

アクションを起こすには方向性があり、それはいつも「命」の尊重でなければならない。

第一、

「命は神さまにした約束よりも大切なものなのだ」

とすべての人が思ってくれれば、神の名のもとに自爆したり敵を無差別攻撃したりすることもなくなる。

映画がメッセージを担うとき、それがどんなに巧みに、効果的に、説得力を持って仕上がっていても、そのメッセージが「私の信ずるところ」に反しているときは受け入れられない。

その「信ずるところ」というのが自分でも何かよくわからなかったけれど、『ジラファーダ』のイスラム教徒の老人の言葉をきいてそれが私の信ずるところに合致していることは分かった。

アラビサウジアの少女の話、パリ近郊のアラブ移民の家庭にやってきた少年の話、パレスティナの動物園の少年の話、子供の目を通して描かれた三本の映画を見て、子供たちに何をどう伝えることが大切なのかをあらたに考えさせられた。
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by mariastella | 2013-12-23 03:43 | 映画
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