L'art de croire             竹下節子ブログ

桜の日本

明日はフランスに帰る日。あわただしくて日本でブログを書いている暇がなかったのだけれど、今回の日本は何となく自分の中で「よし、桜を見よう」という気分だになっていた。

というのは国立博物館でやっている「博物館でお花見を」という企画の最終日が4/13日で私が日本に着いた翌日がぎりぎりセーフだと分かったからだ。

春に日本に帰るのは2年ぶりで、その前も、フランスの春休みは4月後半なので4月初めに日本に来て桜を見ることができたのはもう10年以上前だ。

で、まず久しぶりに上野公園へ。

もちろん最終日でもうほとんど葉桜だったけれど、ボタンザクラなどはまだ咲いていて、人々がその前で記念撮影をしていた。でもソメイヨシノ風の繊細なイメージのものはないなあと思っていると、一本イチヨウザクラの大木が満開で白っぽい花がぎっしりと華やかで枝のたれ具合も風情があって少し「花見」をした気分になった。三脚を立てて撮影している人もいる。

博物館の中では桜が描かれた浮世絵や屏風絵の桜、桜柄の着物などの展示があり、博物館前では上野桜まつりの最終日で屋台が出て猿回しが猿に芸をさせていたし、ほんのり塩気のある桜もち味のソフトクリームを食べたりして「花見気分」が強化される。

猿が猿回しの言葉を理解したようにふるまうところが面白いのに、見物の人たちは猿が器用にジャンプするたびに本気で「おおー」と感嘆の声をあげていた。猿の運動神経がいいこと自体は別に驚くことではないのに。

私が上野まで行って桜を見たと言うと、気の毒がって「宿御苑ではまだ八重桜が満開だ」と勧めてくれた人もいたが、わざわざ新宿御苑まで行く気は起きなかった。

で、その代わりに新宿の末広亭の四月中席に行った。

すると、四月らしく「桜ネタ」や「花見ネタ」があったのでここでも花見気分を味わえた。寄席では立春から四月いっぱい桜ネタが続くそうだ。

「長屋の花見」をやっていたのが嬉しい。子規の「銭湯で上野の花のうわさかな」も引用され、噺家たちが上野の花見で吟行したという話題も出て、上野の山のことを「この山は風邪をしいたかハナだらけ」というダジャレ句も紹介されたので、ああ、上野の山の桜を少しでも見ることができてよかったなと花見気分を共有した気分になった。

良寛の「散る桜、残る桜も散る桜」という句も、残っていた少しばかりの花を見たところなので共感できた。

上野と寄席で「桜」気分になれたので今度はそれをさらに確定するために、山種美術館でやっている「富士と桜と春の花」展に足を延ばした。山種美術館は数年ぶりだけれどすぐ近くに立つミケランジェロの「ダビデ」像にも会えるのはもう山種美術館とセットになっているわくわくする。

富士と桜の取り合わせも、富士だけの絵も、桜だけの絵も、典型的な日本的な感性のフィルターを通して描かれていて、それがするりと分かってしまうのがほっとして心が和む。

と、まあ、上野、寄席、山種の三か所で「桜」はクリアしたことにしようかと思っていたら、5月2日に、旅行先の岐阜県御母衣ダムの近くの天然記念物である樹齢400年の2本の大木「荘川桜」が満開であるのに遭遇した。

この桜次のような由来がある。(以下wikipediaからの一部コピー)

1960年、御母衣ダム建設により水没する予定地を視察中、光輪寺の庭にあった巨桜を見たダム建設事業主である電源開発株式会社の初代総裁高碕達之助は「なんとかこの桜を救えないものか」と、市井の桜研究家で「桜男」とも称された当時の桜研究の権威笹部新太郎に 移植を依頼した。当初笹部はその困難さから、これを固辞したものの、高碕の熱意に絆され、結局は引き受けることとなった。その後、桜移植の事前調査にあたるため同地を訪れた笹部は、同様の桜の巨樹が照蓮寺にもあることを知り、この桜も移植することを提案し、2本同時に移植することとなった。笹部指導の下行 われた移植工事は、世界的にも例がないといわれるほど大がかりなものであったうえ、樹齢400年以上という老齢とその巨体、更に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われるほど外傷に脆弱な桜を移植することもあり、困難を極めた。可能な限り枝や根を落とした桜をダム水面上となる丘まで運搬し、移植したが、無骨 な幹だけの姿は無残な姿にも見えたため、当時、笹部や高崎には水没地住民や世間から「むごい仕打ち」「いずれ水没するのに追い討ちをしなくても」などと非難が集中した。しかし笹部の目算通り、その翌1961年春、桜の活着が確認。1962年6月に行われた水没記念碑除幕式で当時の電源開発総裁により「荘川桜」 と命名された。移植以来、同社の継続した保守管理もあり以降も年々枝葉を伸ばし続け、現在はかつてのように美しい花を咲かせている。荘川桜の活着当時、桜にすがりついて泣いた元住民もいたといわれる。平成10年頃までは水没地の元住民の集まりである「ふるさと友の会」が春先に荘川桜の元に集うなど、元住民にとっては現在でもかつてのふるさとの象徴的存在となっている。

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案内してくれたのは地元の人で、この桜が復活した時の感動を語ってくれた。満開を伝える中日新聞によると、花の少ない年と多い年が交互にあるそうで今年は多い年にあたっているということだ。

この巨大な二本のエドヒガンザクラの他に、周りには御母衣湖を見下ろしてたくさんの桜が植えられていて、すべて満開だった。

快晴の空の青に満開の桜が映えて、人々の生活の記憶を刻んだままの村々が底に沈んだ御母衣湖を前にすると、今年の春「日本の桜」になぜかこだわっていたのはすべてこの光景を見るためだったのかもしれない、と思えてきた。
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by mariastella | 2014-05-05 00:41 | 雑感
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