L'art de croire             竹下節子ブログ

フランシスコ教皇と「正義の戦争」?

中東でISISあらためイスラム国が、キリスト教徒(ここらは初期キリスト教の発祥地エリアのひとつでイスラム教が生まれる前からのキリスト教共同体がある)や他のマイノリティ宗教(イェジディ)の共同体の人々を激しく攻撃している。

「イスラム国」は人々に、イスラムに改宗するか、税金を納めるか、さもなくば死、あるいは消えるかという選択肢を与えると言っている。実際は多くの人が殺されているし、逃げるしかないので、フランスをはじめヨーロッパの国がビザを発行して亡命を受け入れはじめている。

これが、例えば日本の江戸時代だとかで、マイノリティの新しい宗教であるキリスト教が取り締まられて、「踏絵を踏まないと殺す」と言われたのなら、踏絵を踏んでしまう人は多いだろう。

まあ日本の場合個人の信仰というより「家の信仰」が重要だったから、主君や父親がキリスト教徒になっていてそれを放棄しない時に家族や臣下が棄教するのは難しいと思うが。

そういう仲間内の縛りがなければ、踏絵を踏むくらい痛いわけではないし、「踏絵踏むべからず」という戒律があるわけでもなし、形だけ従っておこうという人もいたと思う。実際それで何百年も隠れキリシタンであり続けた人々もいたわけだ。

しかし中東のキリスト教共同体の人々は、突然攻め込んできた重装備のジハディストという名の過激派多国籍軍(イギリスやフランスの二重国籍の人も多い)から、改宗して戒律に従えと脅迫されるのだから、これは事実上、「改宗します」とか金を払います、などというレベルでやり過ごせるものではない。ただひたすら、殺されないために家も土地も捨てて逃げるしかないわけである。そのような逃避行の途上で多くの犠牲者も出る。

こういうまるで「歴史上の数々の蛮行」で過去のもののような気がしていたことが、リアルタイムですぐ近くで起こっていて、ジハディストのプロパガンダまでもウェブで一斉に流されている状況は衝撃的だ。

で、これまで、パウロ六世からベネディクト一六世まで「二度と戦争してならない」と一貫して、中東などへの「武力介入」もきっぱり批判していたカトリック教会なのに、8/13に、フランシスコ教皇が国連に「イスラム国」が非武装弱者に一方的に襲い掛かる蛮行を終わらせるようにと頼んだという声明を出した。

それで、ついにヴァティカンが武力行使にゴーサインを出した、正当防衛の「正義の戦い」権を発動した、などと話題になっている。その時点では、どうやって「終わらせる」かについては言及されていなかったからだ。

これについて、韓国からローマにもどる飛行機の中でインタビューを受けた教皇は、自分は「止めるべきだ」と言っているので、報復しろとか相手を攻撃しろと言っているわけではないこと、そしてこれは個別の国家が判断すべきことではなくて、国連による合議のもとに「止める」手だてを求めるべきだ、と言っているのだと答えた。

しかし、結果的には、これは教皇がたとえば今のアメリカによる「空爆」を支持しているのだと解釈する人もカトリック内部にいる。「教皇はルビコン川を渡った」というのだ。(むしろ支持されている。)

しかしイスラエル軍のガザ攻撃にも、シリアの内戦状態にもこういう言い方をしなかった教皇が「一線を越えた」かに見えることで、カトリック界には、他のものは「ヴァイオレンス」ではあったが、「イスラム国」によるマイノリティの攻撃は「ヴァイオレンス」から「悪」に踏み込んだ、とその質の違いを語る言説が現れるようになった。

我々が前にしているのは、もはや「暴力」ではなく「悪」なのだ、という。

プーチンの詭計やロシアに「誇り」を取り戻そうという姿勢については、話し合うこともできる、イスラエル=パレスティナの蛮行については合法的に異論をとなえることができる、しかし「イスラム国」やナイジェリアのボコ・ハラムらの蛮行は、「悪」の問題を突きつけるというのだ。

いわゆる西洋諸国の論壇は、ナチスが解体して以来、もはやスピリチュアルな「悪」という言葉は宗教的でアルカイックな概念であるかのように、不問に付してきた。

実際9・11の後でブッシュが「悪の枢軸」などと口にした時は「十字軍」発言とともに、冷たく批判されている。世界との関わり方は環境にしろ地政学にしろ、科学主義や合理主義と共にアプローチすべきで、「善悪」などという物差しは公の言葉、思想の言葉として封印されていたのだ。

レバノン内戦やカンボジアやルワンダの虐殺を前にした時も、それはなかなか表に出なかった。けれども、今や、政治的、外交的な対立とは別の次元の「悪」が、思想信条のレベルではなく、「民主主義先進国」に切り込んできた。それらの国が「生命」とか「死」とか「他者」などと、どのような関係を結ぶのかという問いを突きつけてきたというのだ。

ある論者(Jean-Claude Guillebaud)は、しかしそれは、「悪」に対して「善」の側に立てという鼓舞ではない、という。「善」を勇ましく掲げる者もまた「異種絶滅者」になるかもしれないからだ。

彼はリタ・バセットの

「悪の反対は、善ではなく、le sensだ」

という言葉を引用して賛意を表する。

le sens とは何だろう。「意味」だろうか、「感覚」だろうか。

判断力、思慮、感得力だろうか。

周りに見えたり起こったりしていることを「感知」してそれがどういう意味かを考えることだろうか。

生きていないと「感知」はできない。生きて、感知して、生の意味を考えることだろうか。

抵抗する人を問答無用で処刑する人が、相手の生や死の意味など考えていないというのは確かだろう。

この含蓄のあるフレーズをすんなり翻訳できないのが残念だ。
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by mariastella | 2014-08-24 00:14 | 宗教
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