L'art de croire             竹下節子ブログ

2014のカンヌでグランプリを獲得した『ウィンター・スリープ』

すでに『スリー・モンキーズ』(2008)で監督賞を受賞しているトルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督が今年グラン・プリをとった作品『Winter sleep」をついに観に行った。

何しろ3h15の大作で、新学期やら何やらで忙しい今は敬遠していたのだ。

しかも、アナトリアのカッパドキアで小ぶりの岩窟ホテルを家族経営している引退した初老の元俳優アイディン、年の離れた妻、出戻りで鬱病気味の皮肉屋の姉、が雪に閉じ込められた環境で延々とルサンチマンをぶつけあう、という概要を読めば、腰が引ける。

自然が美しい、3時間を感じさせない、普遍的な人間ドラマ、というような好意的な評はあっても決心しかねていた。

結果、さすがに、後悔はしなかった。

もっと陰鬱で閉塞感があるかと思っていたら、登場人物もけっこういるし、それも、妻に先立たれて娘はイギリス人と結婚してロンドンにいる孤独な農場主とか、つっぱりの小学校教師とか、失業して酒におぼれ年老いた母や妻子とともに貧困から抜け出せない男などヴァリエーションがあるし、野生の馬や冬の駅、ウサギ狩りなど場面にも変化がある。ホテルの客に日本人のカップルまで出てくる。

ベルイマン風、アントニオーニ風、それにシューベルトとチェーホフを配して技巧的、職人的な映画作りの上手さに脚本のセリフのすごさ(というかこれは全くセリフのやり取りで見せる戯曲そのものだ)、それに加えてアナトリアというエキゾティックで特殊な背景で、「トルコ人の生活」という特殊なものを内面まで覗けるのだから、まあ、贅沢であり、見所が多いので確かに飽きない。

最初の方で子供の投石で車の窓ガラスに亀裂が入った時のショック、

野生の馬をとらえる時の攻防の衝撃、

撃たれて倒れてまだ息をしている兎の姿が語るあからさまな「生と死」の境界、

そして何といっても、結局は人の幸不幸を決めるように見える暴君で偶像である「金」、しかも「家一軒が買えるほどの現金」のたどる運命。

これらのシーンは、いずれも「雪に閉ざされた室内での人間模様」などとはかけ離れたリアルに衝撃的なものだ。

しかも、「雪に閉じ込められて延々とルサンチマンをぶつけ合う家族」というので、なんだか物質的にも悲惨なものを想像していたが、

この家族は裕福で、インテリで、携帯もあってパソコンもあって、男はトルコの演劇についての歴史書を書こうと研究しているし、毎週地方紙のサイトに記事を書いている名士だし、姉も昔は翻訳者だった。

みんな若い頃にヨーロッパの大学を出ているらしい。考え方もヨーロッパ的だ。

なるほど、トルコがEU加盟を求めるのも、エリートたちにはすっかりヨーロッパ人アイデンティティがあるのだと分かる。

トルコ内部での経済格差が大きすぎ、それがそのまま文化の断絶につながっている。日本なら経済格差が大きくなったとはいっても、金持ちも貧しい人も、みんな似たような日本人の感性を持っていて、みんな似たように「アメリカ化」した生活をしている。そこがまったく違うのだ。

そういえば以前に知り合ったトルコ人社会学者とメールを交換していたことがあったが、彼はヨーロッパと非ヨーロッパの懸け橋としてトルコを位置づけ、日本ともその意味で連携したい、と言っていた。この映画の感想を聞いてみたい。

主人公アイディンの姉は次々に嫌味を繰り出すのだが、それが、妙に哲学的で論理的で理屈っぽく、「インテリの嫌味」である。

例えば「イギリスの労働階級の家族の不和」を描く映画で繰り出されるような嫌味の応酬とは全く違う。

主人公のアイディンは「もっと大物になる」夢も破れた人生の秋で、けれどもパトロン根性が抜けなく説教ばかりする「上から目線の男」、と紹介されている記事もある。

でも、年齢的に同世代のせいか、私はなぜか一番親近感が持てた。若い妻があれほど苦しむような精神的マッチョとも思えない。男も姉も若い妻も、みんな頭が良すぎて物事を反芻して考えすぎて自分を追い込んでしまっているのは認めるけれど。

私にとって、登場人物の中で一番強烈だったのは、家賃をはらえずにテレビなどを差し押さえられた貧しい家庭でただ一人働いている男。結婚もできず、老いた母や甥の面倒をみながら、自暴自棄の兄を必死にフォローする。この男の「正しさ」と「まともさ」が苦しい。

いつも穏やかでにこにこしていて、礼儀正しく、それが卑屈と紙一重で、それでもその強さが、他の偽善者たちや偽善をかなぐり捨てた憎悪全開の人々の両方に、微妙な罪悪感を与えてしまう。

この人がにこにこして繰り出す紋切り型の優等生的セリフが一番底が浅くて、他の狂暴な人や偽善者や欲求不満の人々たちは「言語能力」が高すぎる。

そのせいでリアリティがないと言えばその通りで、この世界が完全に「書きこまれ尽した」演劇的世界なのだと分かる。(原作は小説)

後、前に『家庭の庭』について書いた時にも思ったのだが、金があってもなくても、教育があってもなくても、最終的な幸不幸「感」の拠り所は、配偶者がいたり子供がいたりすることに収束するのかと思うとショックでもある。

この映画はラスト・シーンが安易だといえば安易だが、いつか終わらさなければならないのだからまあこんなもんだろう。特殊から普遍へという意味では、「作り過ぎ」のせいで深みに到達できなかった感がある。

来年日本でも公開というから、日本にいる日本人のコメントをまた聞いてみたい。
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by mariastella | 2014-09-23 01:02 | 映画
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