L'art de croire             竹下節子ブログ

ギユンター・アンダースとプロメテウス的恥辱

フランスの環境問題で、原発削減が事実上棚上げにされたことを見て複雑な思いだ。

原発のようなリスクの大きいものは、たとえドイツやイタリアが廃止に向ったとしても、フランスや旧共産圏で古い原発が稼働している限り事故が起これば一蓮托生なのだから、これこそ少なくともEU規模で取り組むべきだと思うのだけれど。

日本の原発の問題を考えると、原爆のことがセットになって思い浮かぶ。

そもそも、原爆被爆国である日本に、例えばギュンター・アンダースのような思想家が生まれなかったのはどうしてだろう。

彼の最初の妻であるハンナ・アーレントがアイヒマン裁判を傍聴して悪について考えたというのはよくわかる。
アイヒマンが、原爆を落とした飛行兵も命令を遂行しただけだと言った。

アーレントによる悪の「凡庸」化を批判する人もいたが、元夫のギュンター・アンダースは彼女を支持し、日本の被爆地も訪れ、原爆を落とした飛行兵と文通を続けた。

アーレントのようにアイヒマン裁判を傍聴した開高健はなぜトルーマンが裁かれないのかと自問したそうだが、ギュンター・アンダースのように執拗に突き詰めることはかなわなかった。

ひとつには言葉の問題があるかもしれないし、「西洋」文化圏との壁があるのかもしれない。

ギュンター・アンダースはユダヤ人でポーランド生まれのドイツ人でフランスでも暮らしたし、アメリカでも暮らしたし、またヨーロッパに戻ってオーストリア人としてウィーンで亡くなった。こういう超国境性がないと、原爆について突き詰めることはできないのかもしれない。

そしてそれはそのまま原発への問題提起の深度に関わっていく。

(あまり言いたくないけれど、ウェブで検索したら、日本ではなんと、某宗教の教祖が「公開霊言」でトルーマンがあの世で原爆投下を激白謝罪したと告げたらしい。ギュンター・アンダースのような直球は誰も投げずに、戦後半世紀以上経ってこんな言説が…と思うだけで脱力)

オリヴィエ・レイ(Olivier REY)の新刊『尺度の問題』にはギュンター・アンダースのプロメテウス的恥辱という言葉が出てくる。

元数学者の哲学者オリヴィエ・レイは1600年頃を境に、理系と文系が分かれたこと、それまで「自然哲学」と呼ばれていたものが「自然科学」へと特化して哲学や思想と分かれたことを指摘する。それ以来、「数」の問題は「理系」の分野となって、哲学や思想には取り入れられなくなった。
アリストテレスが紀元前四世紀にギリシャの都市国家について考えた時に最初に問題にしたのは適切な市民数だったのに。

いや、18世紀ごろもまだモンテスキューやルソーの考えにはある社会の構成員の数が想定されていた。

でも今は、人口4万人のアテネも7億人の有権者がいるインドにも同じ「民主主義」という言葉が使われる。

「尺度」が哲学から消えたから、テクノロジーの暴走が起こり人間や人間性が失われたのだとオリヴィエ・レイは主張する。

言い換えると比率の問題でもある。

イヴァン・イリイチもすでに、技術発展の追求が一定の線を越えると、人間の自立、自律を喪失させて本来の目的から外れると批判していた。(この人は今の教皇の元ならカトリックの神父として発言し続けていたと思う)

テクノロジーや効率主義が独り歩きすると、その恩恵にあずかるべきだった人間は、その技術を前にして誇りに思うかわりに劣等感を感じるというのがギュンター・アンダースのいう「プロメテウス的恥」だ。

それは人工物の機械が道具として完璧に創られているのに対して、人が自分は有機的に生まれた不完全な存在だと感じる劣等感でもあり、自分の想像や理解を越えたテクノロジーを前にした時の恐れと劣等感でもあるという。

ハイテク製品が壊れて修理を頼んだ人が、修理するプロの前で「何か自分が無知ゆえにバカなことをして壊したと叱責されるのではないか」と恐れてしまう感情だのだそうだ。

うーん。私はまだそこまでは劣等感に苛まれないで開き直っているけれど、今の若者のように生まれた時からハイテク機器に囲まれている人たちとは違って、確かにとまどいは大きい。

もともと、ラジオやブラウン管テレビであっても「不思議の機械」でありその仕組みが分からないというか分かろうともしなかったので、今さらデジタル弱者であることを若者やデジタル強者から嘲笑されても揶揄されても恥じるところまではいかない。

でも、私より少し前の世代にはもっとデジタル弱者の人たちがいて、その人たちとは以前はファックスをやり取りしたり手紙をやり取りしていたのに、今や、メールもサイトも見てくれない人とはお付き合いが絶えてしまったケースがあり、そのことの方に罪悪感を感じてしまう。

大切なのは、テクノロジーの発達が多くの人との連帯を可能にするのは良くても、少数の人を分断してしまうのは良くないという自覚だ。

オリヴィエ・レイのいうように生活や思考方法や哲学に「複数の尺度」を意識して使い分けながら、最終的には「人類」を視野に入れた普遍主義を目指せるかどうかなのだろう。
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by mariastella | 2014-10-11 23:22 | 雑感
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