L'art de croire             竹下節子ブログ

フランスのテロ事件に思うこと  その4

日曜は共和国の行進。

それに行くかどうか、と質問をされたのだが、私はもちろん行かない。

木曜正午の黙祷の時にも公共の場所にいないように配慮した。
スーパーにいても音楽が止められて黙祷が促される。

私はもしうちでTVを見ていて黙祷のシーンになったら黙って心を合わせるタイプだ。

別のチャンネルにわざわざ変えるつもりもないし、突然しゃべったりトイレに立ったりもしない。

でも、時間を決められたいっせいの黙祷のような行為を外で強制されるのは苦手だ。
もちろんいざその場に居合わせたら目立たないようにおとなしく黙祷するだろう。
自分のそういうことなかれ主義のオートマティズムが不愉快なので選択の余地があればそういう場所にはいたくない。

行進もまったく同じ理由で、「みんなで盛り上がる」ということ自体に抵抗があるのだ。

今朝のラジオのインタビューの最後でレジス・ドゥブレは、「私はコミュニオンが好きなのでもちろん行きます」と言っていた。

この人は私よりずっと素直でキリスト教的だとあらためて思う。

実は今回の事件についてこの人が何を言うかぜひききたいと思っていたのだが、ちょうどラジオのインタビューが始まったので嬉しかった。

私の世代のかなりの人はそうでないかと思っているのだけれど、私にとってのレジス・ドゥブレは高校に入ってすぐのヒーロー的著者だった。中学生でポール・ニザンの『陰謀』や『アデン・アラビア』に夢中になって、高校ではドゥブレの『革命の中の革命』だった。

今振り返ると、ニザンの方がまだ想像可能なところにいて、ドゥブレなんてボリビアのファンタズムだったのかなんだか分からない。

2人ともフランスのエリートでインテリの共産党シンパという近い位置にいたが、今から思うと、日本の中学生や高校生にとって彼らはただのシンボルだったのかもしれない。

で、1990年代くらいになってドゥブレと再び、今度はフランス語で出会うようになって、この人がすごく自分と近い感性を持っているのが分かった。

仲間のような気がする。

で、今回のことについても私と同じように、アメリカとの違いを強調する。

ブッシュがしたように、テロリストに対して戦争と称して愛国法を作ってそれこそ表現の自由などを制限したり拷問を正当化したりしてしまうのではなく、法治国家の掲げる理念を追求することにこだわる。

「判断の自由」、啓蒙の光と「反抗」はフランスのDNAだと言う。

彼が「自由判断libre jugement」 という時は、キリスト教の「自由意志libre arbitre」が明らかに念頭にある。

人権宣言には「表現の自由は絶対のものではないし無条件のものでもない」とある。

時代の文脈に合わせ、共存と平和の実現が可能な方向でそれを調整する法の制定が必要だということだ。

オランド大統領も今回さすがに、「我々の理想は我々よりも偉大だ」と認めている。

フランスは革命を経て政教分離した時に、共和国理念を宗教の差異を超越するものであると見なした。
いや、国家の差異さえ超越する普遍主義だと言ったのだ。

だからドゥブレが言うように、国家が衰退してシンボリックな権威を失う時、勢いを増すのはカルトとマフィアだけだとなるのだろう。つまり狂信と反則。 

権力がリスペクトされるためにはメタフィジックが必要だ。

サルコジは今度のことを「文明への戦争だ」などとハンティントンばりのアメリカ的言辞を繰り返したが、ドゥブレはこれをトインビーのいう意味でのチャレンジとレスポンスだと見る。

そして、もう一度共和国理念のもとに人々が連帯するには、垂直のディメンションが必要だと語る。

政治(ここでは共和国)が世俗宗教であることをやめて(すなわち宗教モラルを世俗的に継承させていくシステムであることをやめて)、歴史と希望のメッセンジャーでもなくなった時、巷の宗教がイデオロギー化し、政治化する。

政治はエコノミストであることをやめ、マネーの独裁や金勘定から離れて、大文字の「真実」とか「国家」に戻らなくてはならない。

言い換えると、いわゆるポスト・モダンの相対化による水平の多様化だけでは人は本当には平等に共存できないので、差異を超越する価値を掲げて集まり、同じ方向に向かって進まなければならない。

ドゥブレもゲリラ戦に加わった体験から、戦争が若者を惹きつけることや大義のために命を捨てる欲望も理解出来るという。
しかし、ゲリラ戦で捕虜を殺すことはなかった。そこにはヒューマニズムのコンセプトがあった、と言って、「キリスト教のコンセプト」があった、と回想する。

こんな話を聞いていると若い頃は勇ましい共産主義の革命家だったドゥブレがいかに、キリスト教的文化の継承者で一神教的世界観を持っているかが分かる。

しかし、こういうことを語ると、必ず、西洋と東洋(ここでは非西洋、つまり非キリスト教ということ)はそもそも違うんだ、その差異を認めるべきだ、と言う人が出てくる。

すなわち

我々の西洋的価値では権力や権威を批判したり揶揄したりする自由は認められているが、それが東洋のほとんどの国では冒涜であり罪であるのだ、つまり、異なる価値観の衝突なのだ

という言い方である。

また非キリスト教文化圏の日本のような国でも、

「西洋は自分たちの民主主義だの資本主義だの自由平等などを絶対の普遍価値のように押しつけるが、そもそもそれは彼らの伝統ではあって、我々の伝統には合致しない。西洋スタンダードを押し頂くのは考え直すべきではないか」

などという論調も耳にする。

これについては、両方とも正確ではない。

そもそも人間の社会は長いスパンで見ると、東西どこでも、聖俗の支配者や権威を公に批判したり揶揄したりすることが罪になり罰の対象になるところがほとんどだ。

階級の差であったり長幼の差であったり、性差であったり、上下関係を規定し固定するルールはどこにでも存在する。
自然神にしろ先祖神にしろ、「聖なるもの」とその代理人、司祭、神降ろしをする人を冒涜すれば共同体から追放されたり制裁されたりということも一般的で、そこに東西の差はない。

そんな中で、確かにキリスト教は「神が人間になって生まれ、超人ぶりを発揮しないまま罪なくして無抵抗で殺された」という起源を持ち、「人類はみな神の子で自由平等に愛し合うべききょうだいである」、という特殊なメッセージを持っていた。
もちろんそれだけではメジャーになりえないのだが、ローマ帝国の国教となってから一気に拡大した。
逆に言えば帝国の国教になってから、支配に不都合なメイン・メッセージは隅においやられてしまった。
しかし、まあ、完全に忘れるわけにもいかないので、いつの時代にもメイン・メッセージを掲げて改革に乗り出す人やグループはいたのだ。

そのせいで、教会分裂や宗教改革や反教権主義から理神論などが生まれて、そこに他のいろいろ複合的な要素が重なって、特権階級や宗教の権威に服さずに自由に生きる権利を追及する大きな流れが出てきたのがヨーロッパのキリスト教社会の中においてだったことは間違いがない。

そこから革命だの戦争だのが繰り返されて、実際に無産階級や女性らの自由や平等の権利が拡大されてきたのも事実だ。

つまり、「西洋の価値観」と言うのは別に人種的地域的に固有な伝統ではなくて、近代の三世紀くらいをかけて血を流し、試行錯誤し、反省を重ねてようやく「普遍価値」として合意したもので、だからこそ自分たちの身の丈よりも大きい、上方にある価値なのだ。

キリスト教の父なる超越神が天の国にいるという垂直イメージがそのまま基本的人権や自由平等の理念の普遍性、超越性のイメージになったのである。

まあ、慈悲の神を戴く宗教でも人間の手にかかればあっというまに偶像と化し便利な道具になってしまうように、自由平等や民主主義の普遍理念も、あっという間にただのお題目になり権力の担保になるのがほとんどのケースではあるが。

だからこそ、フランスのような国でも、共和国理念と合いいれない偽善や見て見ぬふりの裏で差別や格差が広がるわけである。

今回のようなテロが起きると、大統領が言うようにフランスは本来のフランスらしいレベルで共和国主義と連帯を取り戻すきっかけになるようだ。

それに比べるとアメリカという国は宗教戦争や封建制度打倒などの「戦い」の歴史を経ずに最初から理想的な「神の国」を建国したという意識と自負があるから、わりと単純に

「うちの価値観が西洋の価値観で普遍的で正しい価値観だ」

と言い切る。

けれども「西洋の価値観」は実は長い戦いの歴史の中でようやく獲得された理想の価値観であって、常にその「質」を維持する努力なしには独善主義や覇権主義に簡単に陥る危ういものなのである。

でも、一部の狂信者がいるからといってある宗教の価値観を否定できないように、「西洋の価値観」をふりかざす帝国主義者がいるからといって自由平等の人権主義や法治主義そのものを否定することはできない。

そういうことがあるから、日曜に英・独・伊・仏・西・欧の首脳やヨルダンの王夫妻や、イスラエルの首相までが集まって共和国の価値観のもとに「歩く」というのは、いかにもフランスらしい、いいことだと思っている。

アクシデントが起こりませんように。

(このテーマを追っていくとますます仕事が遅れるのでいったんストップするつもりだが、政治批判のお笑いとかカリカチュア文化は日本と「西洋」ではかなり違うなあといつも思う。日本のお笑い芸の政治性はアグレッシヴなものはないし、レベルの高いマンガも、カリカチュア風の政治がらみで面白いと思うのは業田良家(ガラガラポン・日本政治)くらいかなあ。でも日本のマンガですごいと驚くのは、講談社の『モーニング』誌で見る『いちえふ』「福島第一原子力発電所労働記)だ。マンガ家が実際に建屋で作業してそれをドキュメント・マンガにしているもので、これなどはさすが日本だなあと感心する)
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by mariastella | 2015-01-11 07:39 | フランス
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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