L'art de croire             竹下節子ブログ

ユーモアと冒涜について その2

シャルリー・エブドの新刊の第一面に預言者が戯画化されているとしてイスラム系の国でフランス大使館やフランス文化センターを襲ったり放火したりする事件が相次いでいる。穏健派や保守派の雑誌もシャルリー・エブドの一面や彼らのこれまでのカリカチュアを転載しているせいからだろうか、エール・フランスのビジネスクラス用のラウンジにはこのところ、「事件の前」の号の雑誌が並んでいる。危機管理の一種なのか。

イタリアのボローニャのカテドラルでは警戒が続いている。ムハンマドと蛇の地獄絵があるからだそうだ。カテドラルのサイトではそれをカットした。
ダンテの神曲をテーマにした15世紀のフレスコ画であって、イスラム過激派の標的になるリスクを回避して撤廃するなどの処置を司教は拒否したと言っている。

ナチスの手から逃れて少年時代にフランスに来て、自分の周りに起こったことを知りたくて精神分析医になったBoris Cyrulnik(Les Âmes bléssées『傷ついた魂たち』の著者、もちろんユダヤ人)が「冒涜」について語っていた。

全体主義者が戦いを仕掛ける口実の第一番は「不信心」で、二番目が「冒涜」だそうだ。

冒涜の基準はもちろん時代によっても変わり、キリスト教の聖像の行列を前にして女性が髪を隠していないだけでも「冒涜」と見なされたこともあった。大名行列を前にしては土下座しなければ切り捨てられたかもしれない時代があったのだから、宗教とは関係がない。

シャルリー・エブドがヤハヴェを戯画化した時も、だからユダヤ人は訴訟を起こしたことがない。反ユダヤ主義の罪は、「ユダヤ人を殺せ」などというメッセージにのみ問われるのだとボリス・シリュルニクは言う。

シャルリー・エブドは、宗教を「冒涜」したかもしれないが一度も「死ね」とか「殺せ」とは言っていない、その逆で「死ね」「殺せ」という側を批判したのであり、「暴力を煽動する冒涜」と「暴力に向かうことのない冒涜」は別のものだと。

シリュルニクは今週のシャルリー・エブドの一面に描かれた預言者の姿はやさしいものであり報復や暴力とは逆の方向である共感をさそうものだと思う、と言った。

これはなるほどと思うけれど、その表現はどうあれ、「描く」こと自体が冒涜とされている場合は基準が違う。

「人となった神」、それも尊厳を傷つけられて殺されている磔刑像などを表現してきたキリスト教世界はもともと画像への許容度が高い。

もちろん口に出して「死ね」といわないでも、悪質ないじめなどで、「無視される」だけでも苦しんで自死に至るケースがあるのだから、「尊厳を傷つける」こと自体が暴力的だとも言える気もする。

すべては相対的で、多数派や強者が意図的に少数派や弱者に自分たちのルールを強制する時はどんなやり方でも「暴力」なのかもしれない。特にその少数者や弱者が追いつめられる立場にある時は。

シリュルニクは、犯罪の多い南米のスラムで観察したことも述べた。

犯罪取り締まりのためにどんなに多くの警官を動員しても、「警官に立てつくこと」自体に意義を見出す若者たちが出てくるので犯罪が減ることはなかったのが、

一人のギタリストがやってきたらすっかり変わったのだという。
若者たちはみな音楽に魅せられて、演奏や踊りに向かって犯罪が減ったという。

さもありなんという感じだ。

インターネット環境のせいでテロが広がることについても、印刷術のはじめの時の例を引いていた。

印刷術によって多くの人が聖典や古典に触れることが出来るようになったけれど、最初のベストセラーは『魔女への鉄槌』という異端審問の本だった。

独善主義、全体主義な主流秩序が、それに与しないものを弾劾し「鉄槌を下す」というディスクールは、いつの世でもどんな文化にも見られるわけだが、それが、多くの人を惹きつけてしまうのは何故なのだろうか。保身だけとは思えない。

余談だが、フランスの中で、1905年の政教分離法ができた時にドイツ領だったアルザス・ロレーヌ地方ではナポレオンのコンコルダがまだ生きていて、「冒涜罪」も有名無実とはいえ存在していたので、ストラスブールではカリカチュアが冒涜罪で訴えられていた例が最近もあった。

この地方で冒涜罪がついに正式に廃止されたのは、1月6日、シャルリー・エブドへのテロの前日のことである。
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by mariastella | 2015-01-17 23:01 | フランス
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