L'art de croire             竹下節子ブログ

『トゥルー・グリット』とジハディスト

コーエン兄弟のウェスタン映画『トゥルー・グリット』(2010)をDVDで久しぶりに見た。

先ごろ講談社選書メチエの『フリーメイスン』の中で映画界のフリーメイスンのことに触れたのでまた見たくなったのだ。

この映画は1969年のヘンリー・ハサウェイ『勇気ある追跡』のリメイクで、その時の主演がメイスンであるジョン・ウェインだし、ストーリーのはじめで、使用人に殺された父の葬儀に当たって娘マティが「メイスンの前垂れをつけて棺に入れてくれ」と頼んだり、父の遺品の中にいつも持っていたらしいメイスンのシンボル定規とコンパスがあるところなど、公開当時フリーメイスンのサイトでもいろいろと話題にされた。

でも、今回見直してみてショックを受けたのは別のところだ。今、キリスト教文化圏の欧米各国で普通の白人の若者が、ISILの勧誘ビデオなどを見て親の家を抜け出してシリアに合流することが話題になっている。またアメリカの空爆で家族を失ったイラクの若者が復讐を誓ってISILに加わり自爆テロリストになることもあるが、そういう状況が想起されたからだ。

映画は、14歳の少女が「父の仇」を決意して困難な旅に出る、最後は自分の手でその仇を討つ、というストーリーなので、弱い者が勇気をもって勧善懲悪することに共感できるし、女の子が「神に代わってお仕置きよ」という痛快さがありハラハラしながら見るので気づかなかったけれど…

これって、少女の「狂信」の物語じゃないだろうか。

一応は、「仇をその場で殺すことが目的ではなくて法の手に渡して裁いてもらう」と言っているのだけれど、その「法」というのは、最初の縛り首のシーンにあるように「公開処刑」による見せしめを自分の町でやりたいということだ。

その縛り首のシーンで三人が処刑されるのだがそこにも人種による「待遇の差別」がはっきり出ていて、「法」というのが恣意的であることがよく分かる。(白人は処刑の前にスピーチができるが黒人はすぐに袋を頭にかぶせられるというように)

第一、1880年のアメリカでは、南北戦争の兵隊上がりも保安官も賞金稼ぎも主人を殺す盗っ人も、みんなアウトローのようなもので、少女の「父の仇」も、仇ではあってもいわくつきの「敵」だったわけでなく、命が軽かった暴力の時代に金のためによそでも人を殺している「平均的なならず者」に過ぎないのだ。

そしてそのならず者を殺す途上で、結局8人が巻き込まれて殺されることになる。

この少女は開拓民の子孫というこの時代のアメリカの少女らしく教会にちゃんと通うピューリタン的心性を持っていて、彼女にとって「平均的なならず者」など悪魔のようなものだ。
「罪を償わせる」という考え方が根付いている。

「復讐するは神にあり」ということは知っているが、その復讐を待っていられないし、罪人が神でなく人間に裁かれて縛り首になる罰を受けているのを日常的に目にしている。

すべての行動には代償がある、代償のないのは「神の恩寵」だけだ、という覚悟はある。

で、自らの手で父の仇を殺したすぐ後でまるで地獄に墜ちるかのように穴に落ちてガラガラヘビに咬まれる。

彼女を助けてなんだか「共依存」みたいになっていた飲んだくれの連邦保安官のコクバーンが必死に努力して町まで連れていき、何とか命はとりとめるが、肘から下の片腕を失う。

多くの人を殺してきたコクバーンはこの「勇敢で無垢の少女」を助けるのがまるで自分の贖罪であるかのようにふるまっているが、彼自身も戦争で片目を亡くしているように、すでに暴力の代償を払っている。

20世紀になってそのようなウェスタンの世界はなくなり、無法者の生き残りが「ワイルド・ウェスト・ショー」という興業をやって回っていたというのも驚きだ。

明治維新後の日本なら散髪脱刀が出たから「侍ショー」は不可能だが、今に至るまで一般人に銃を持たせているアメリカだからそういうショーもできて、「ウェスタン」のジャンルが確立したのだろう。

それにしても、

家族を殺した相手に復讐するとか、

そのためには命をいとわないのを「真の勇気」みたいにいうとか、

一瞬もひるむことのない決意の固さとか、

「汝の敵を愛せ」とか「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」とイエスが言っているのに「敬虔なキリスト教徒」が神に代わって悪を倒すとか、

こういうことはそのまま、今の時代の若いジハディストの行動論理に重なる。

「洗脳」というけれど、特に誰かが自分の利益のために若者の無知を利用してマインド・コントロールをしなくても、時代と状況によっては自発的に「聖戦士」になって突撃する若者が出てくるということだ。

そして、やはり時代と状況によっては、周りの人がその「聖戦士」の姿を、潔い、立派だ、健気だと愛でる心の動きもあり得るということだ。

『トゥルー・グリット』を見ていると、それが分かる。

でも同時にそういう「罠」には一定のパターンがあることも分かるのだから、「いかなる理由によっても人が人を殺さない」という世界に少しでも近づくような方向性くらいは共有できてもよさそうだ。

少なくともその反対に向かっていきたくはない。
[PR]
by mariastella | 2015-02-26 00:20 | 映画
<< バルチュス展 カルティエ財団で見るアルタヴァ... >>



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
カテゴリ
検索
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧