L'art de croire             竹下節子ブログ

新しい『シャルリー・エブド』

事件後すぐの800万部と言われる記念号の後、1ヶ月経ってようやく出た新体制の『シャルリー・エブド』は、予想にたがわず、すべてを笑う棘を失っていなかった。

表紙は『シャルリー・エブド』を加えて逃げる犬を必死で追いかけるグループに極右政党のル・ペン女史やサルコジやテロリストらしい人物が描かれているのだが、カトリックの司教や同性婚反対のデモに参加したカトリック保守派らしき人物が目立っている。

これを見たカトリック・ブログがカトリックは罵倒されても文句を言わない、じっと耐える伝統があるのにこんな風に描かれるのは遺憾だと書いていた。

『マリアンヌ』には、モアメッド・カシミという作家で戯曲家が、パリ近郊の職業高校で演劇について講演を頼まれて行った時の報告が載っていた。

高3のふたクラスに行く前に校長から注意を受ける。

「テロリストという言葉は戦士でありヒーローと同じだから攻撃者と言ってくれ、テロもオペレーションと言い換えてくれ。イスラムとかイスラミストという言葉も避けて、宗教、原理主義者と言ってくれ、イスラムと口にする時にはユダヤ教徒キリスト教も同時に言及してくれ」

と言われた。

ひとつのクラスは男子ばかりで22人が黒人で白人が2人、全員ナイキのスニーカーにジーンズにフード付きダウンジャケット、白人の2人は首に重い銀のチェーンをかけていた。
2つ目のクラスは女子ばかりで黒人16人アラブ人6人。全員GAPの服を着ている。

『シャルリー・エブド』の話題を振ったら、全員が「彼らは人を馬鹿にしたから当然の報いを受けた」と一様に答えた。

こういう話を聞いて、ヴァルス首相が言ったようにそしてアメリカでFOXニュースがフランスでシャリーア法が適用されている場所という地図を流したように(フランスは抗議したが)「フランスではアパルトヘイトがあって黒人やイスラム教徒は差別されていて、しかもその弱者を馬鹿にするからテロの標的にされるのだ」というストーリーを組み立ててしまいがちだが、それは必ずしも正しくない。

問題は、日本人にも受けているフランスの知識人までそういうストーリーを口にしていることだ。

たとえば日経のインタビューに答えてエマニュエル・トッドが
「『私はシャルリー』というのに違和感がある。テロの前に私はこのカリカチュアを批判していたから今さらまつりあげることはできない」とした上で移民やその子孫が不平等と失業の犠牲となりその一部が過激派に憧れるのだ、と暴力を「説明」した。

さらに、「自分自身や自分の祖先をからかうのはいいが、他人の宗教をからかうのは別の話だ。イスラムは仕事のない郊外の移民のモラルの支えになっている。イスラムを冒瀆するのは移民という社会的弱者を侮辱することだ」と言っている。

これは、フランスの共和国主義に反する。

ジャン・ジョレスは、「貧者の唯一の財産は国家だ」と言っていた。

共和国主義と民主主義が、社会的弱者の支えとなるべきだということだ。

もっと言えば、第一次大戦後は、その「国家」をも超えた民主主義に依拠する普遍主義が弱者の支えになるべきだという理念でヨーロッパ連合が誕生した。

そこでは宗教の如何にかかわらずまた無宗教でも人々が平等に安全に同じ基本的人権を守る法に守られて暮らせるはずだった。
リスペクトされるべきなのはまず「法」なのであってそれが個々の「宗教」や信条に優先する。

日本の新聞へのトッドのコメントだけでなくアメリカの『デモクラシー・ナウ』というテレビ番組でスイスのイスラム学者タリク・ラマダン(一部のフランス知識人に人気)が、『シャルリー・エブド』は金に困っていたからどんどん挑発的な記事を載せるようになったのだ、あれは勇気ではない、とアート・スピーゲルマンの前で、英語で語った。さらに陰謀論までにおわせている。

「自分自身や自分の祖先をからかうのはいいが、他人の宗教をからかうのは別の話だ。」というトッドの言葉、これが曲者だ。

上記のリセで、「イスラムの名を出すならユダヤもキリスト教も言及するように」というのと同じで、ここ20年、フランスの政教分離の原則を脅かす形でイスラムが問題となっている事項についても、イスラムだけ取り上げるのでは即差別とか侮辱とか言われるので放置していたからこそ、若者がイスラム原理主義を「支え」だのアイデンティティにしてしまって今の事態になったわけだ。

それを言うなら、『シャルリー・エブド』ですら、そういう配慮を欠かしていない。

冒頭に書いたように、今に至るまで、『シャルリー・エブド』がまず無抵抗の「カトリックの司教」をもっとも派手に侮辱するのは、それがフランスにとって「自分自身や自分の祖先をからかう」ことに属しているからなのだ。

こういう自主規制や、他者をからかうバランスをとるために自虐を全開したりすることは往々にしてある。

「当事者」でない時は、堂々と意見を述べられないことがよくある。

電車の中のベビーカーだの、保育園や幼稚園の子供の声の「騒音」だの、子供のない人や孫のない人が批判すると「弱者の立場を理解できない」などと言われるのではないかと遠慮がちになる。
仕事場に赤ん坊を連れてくるとか来ないとかいう論争も昔あったが、子供がない人が批判すると「お前に言われたくない」となるし、子供をあずけて仕事する人が批判すると「子供をあずかってくれる人やあずけられる経済力があって恵まれているお前に言われたくない」となる。
「死刑反対」と言うと「子供を残忍に殺された親の身になれないのか」などと言われそうだ。

そんな中で「当事者」が正論を言ってくれると本当にすっきりする。

今度の件では例えばアルジェリアの作家ブアレム・サンサルが納得のいくコメントを出した。

彼は書くものをアルジェリアで検閲されたりしているが平和と民主主義のためにはアーティストが必要だと言って国に留まっている。経済学博士でもある。

彼は言う。

ヨーロッパ人はいつも南から来るものを過小評価してきた。
ヨーロッパから支援、沈黙、あるいは共謀を引き出そうとしてアラブの独裁者たちが論拠を述べ立てる知恵や策略を過小評価した。
その論拠は、石油だったり、マーケットであったり、ヨーロッパにおける移民の労働力やイスラムやイスラミストやテロリズムや国際同盟関係のバランスなどだ。

ヨーロッパは、イスラムが最終的にもたらすだろう、キリスト教的、政教分離で民主主義で自由主義のヨーロッパにとっての解決不能な問題を過小評価した。

アラブ諸国の政治的イスラム化が進むことは自明だったのに、過小評価した。
アラブ諸国の問題がヨーロッパ内のイスラム共同体に影響を与えるということも過小評価した。

アルジェリア内の様々な問題(ハラールやスカーフや屋外での祈りや羊の燔祭)などがそのままフランスで起こった時にそれがアラブ主義によるヨーロッパにおけるイスラム化政策の第一段階と考えずに単に伝統やムスリムのアイデンティティの問題という社会的文化的見方をしてきた。

その結果、イスラム国のように領土を支配するものが現れた。

ヨーロッパのイスラムは政党を形成し権力を掌握しようとするだろう。

アルジェリアではイスラム過激派が世界制覇を使命としていること、目指していること、その第一段階がヨーロッパだということを早くから察知していた。
過激派はそう宣言していた。はじめは誰も本気にしなかった。その頃は少数で、しかもサラフィスト、ジャザリット(アルジェリアニスト=アルジェリアをイラン型のイスラム共和国にすることを目的とする)、タリバン、トルコをモデルにした穏健派、そしてテロによって世界をイスラム化するジハディストなど多くの派に分かれていたからだ。

ヨーロッパはこれらの危険を過小評価したばかりか、イスラミストたちの犯罪を説明することで弁護する役割すら果たしてきた。

同じ趣旨の別の意見をエリザベト・バダンテールや精神分析家で宗教人類学のマリク・シェベル(この人もアルジェリア人で「啓蒙のイスラム」を唱えている)も言っている。

1990年代終わりに展開されたアルジェリアの激しい内戦は、図式的に言うと、「民主主義」対「神権主義」の戦いだった。10万人以上が死んだが、殺し合ったのはムスリム同士である。

文明の衝突ではない。信教の自由を認めた政教分離の民主国家にするか、宗教の法に従うかという対立だ。民主主義が「西洋」の伝統だったわけではない。
「西洋キリスト教文化圏」はさんざん宗教戦争などで血を流してようやく学習して政教分離の平和という合意に至っただけだ。
「神権」といっても神がその都度何か言うわけではないから「神の言葉」を解釈したり「神」の代理としてふるまったりする人間が絶対権力を持つことになるのは歴史が教えてくれるからである。

冒瀆的戯画に対する意識も、そもそも「描かれたもの」を聖なるものの本質だと見なすこと自体がプリミティヴな心性である。それは写真のはじめて見た人々が写真に撮られたら魂を抜かれると思ったのと同じだ。

昨年11月に亡くなった作家のアブデルワハブ・メデッブ(チュニジア出身の敬虔なムスリム)は、堂々と「フランスがイスラム世界に適応することはない、その逆だ」と言っていた。

同じことをフランスの知識人が言ったら、「嫌イスラム」認定だ。極右のレイシストだと言われかねない。
バダンテールの言うことも正論なのだが、彼女は「ユダヤの富豪」のレッテルを貼られることも可能だから、難しい。

フランス語圏であるチュニジアやブキナファソからはフランスで大学を出た知識人やアーティストも少なくないのでウェブサイトなどではっとするほど「過激な」同国人批判の記事やカリカチュアも見られる。「当事者が正論を言う」ことの大切さが、分かる。
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by mariastella | 2015-03-04 07:49 | フランス
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