L'art de croire             竹下節子ブログ

危機の時代の「いい加減」と「曖昧」

日本とフランスが両極端なのに「似ている」というところは、大都市での普段の生活に宗教臭がない所だと昔から思っていた。

もちろん日本でも盆や正月や冠婚葬祭に宗教的な形はあるしフランスでもクリスマスや復活祭や昇天(イエス)や被昇天(マリア)や聖霊降臨が祝日になっているし子供の洗礼式などの形も残っている。

けれども、政治家は絶対に「神」を口にしない。
フランスで一番多いのは洗礼を受けているかどうかにかかわらず、いわゆる「不可知論者」だ。
聖なるものに対して「判断保留」という、曖昧な、または政教分離の共和国で一番無難に市民が共生できる「大人の選択」だ。

他のキリスト教文化圏の国ではもっと二元論的な緊張がある。

曖昧にしておくのは、「共生」以外にも利点がある。

特定の宗教共同体に定額の「寄付」や勤労奉仕をし続けなくてすむ、また、結婚、出産、死亡という人生の「通過儀礼」や、老い、重病、重度障害など実存的な危機に遭遇した時の心理的、あるいは社会的なセーフティ・ネットはとっておける、などだ。

それは日本の都会の根なしマジョリティも同じで、初詣や病気平癒、入試合格、結婚、安産など都合のいい時に「神頼み」できる場所を確保しておいても、「伝統宗教」ならその都度対応してくれて、それまで「悪い信者だった」などと責められることはない。

この「いい加減さ」がすごく似ている。

日本からフランスに来た私にはそれがあまりにも普通なので長い間気づかなかったのだが、アメリカや他の国では宗教的な旗色を示すことがアイデンティティに組み込まれていることの方が多い。

で、フランスも日本も、そのいい加減さが、「大人同士」で分かり合う、という状態ならいいのだけれど、問題は、そこに「本気」の人が入ってきてもなかなか気づかなかったり本気にしなかったりすることだ。

一昔前は「出る杭は打たれる」という風潮があったかもしれないが、いまや

「多様性だよね」

くらいにしか思わない。

ところが「本気の人たち」の中には、「折伏型」のグループがいる。

で、「うちは何でもありで寛容だから」といいつつ実は他人に無関心で自分のことしか考えていない多数の人は、いつの間にか「折伏型」グループが根を張っていたり若者に影響を与えてしまっていることに驚くのだ。

ヨーロッパは第一次大戦が「終わらなかった」ことを学んだ。
その終戦条約の過酷さが次の戦争のポテンシャルを高めたので何一つ解決せずに、「力づくの平和」は20年しかもたなかったのだ。
それで目が覚めたので、第二次大戦後には「恒久平和」を目指して独仏が手を取り合ってEUの基礎を創った。

ユルゲン・ハーバーマスの「すべての人間にあてはまる規範」という普遍主義的理想のもとでヨーロッパは構想されたのである。
つまり、我々はもはや文化的、愛国的アイデンティティから離れて、普遍的価値である個人の人権を守ることを目的にした理性的落としどころを見つけなくてはならない。そのための複合的な過程である民主主義体制を固める必要がある、ということだ。

日本がすごいと思うのは、そういう感じの言説を「うんうん、民主主義だよね、平和だよね」と、わりと簡単に受け入れて(実は宗教色も濃く愛国主義も濃いアメリカ経由だったけれど)「平和」を享受したことだ。
まあ、ヨーロッパもそうだが戦後の復興に大変で、天下国家のことをいろいろ考える余裕がなかったのだろうけれど、そういう思考停止のまま、結果的には、そういうことをあれこれ考えてきたフランスと同じような社会になってしまった。

そんな日本やヨーロッパは、自分たちが例外であること、

世界のほとんどの地域では昔ながらの力の論理や愛国主義や宗教拡大主義が全然終わっていないこと

を、20世紀末にやっと気づいたのだ。
戦争中の「犯罪」を執拗に償わせる国だとか、特定の国に対して敵対プロパガンダを仕掛ける国だとか、「十字軍の西洋」対「イスラムのオリエント」が文明の衝突をしている図式づくりだとか、一つ一つが歴史学的に不当であったり時代錯誤であったり独裁者の戦略であったりしても関係がない。

実情は、暴力に向かう実力行使がヨーロッパ内部で実際に始まっているということだ。

それどころかその覇権主義的や闘争的な言説に賛同し、そのために自分の命を捨てることもいとわないほどの機動力を見せている。

半世紀以上もかけて忍耐強く理想の社会を築いてきたつもりのヨーロッパは、

怒りや恨みや衝動に満ちた人間の歴史と人間の世界から卒業することなどできない、

と悟り、揺さぶられた。

プーチンはヨーロッパの首脳と同じ発想で動いていない。
ISILはもちろん、中近東やアフリカの軍事政権も、ヨーロッパ内の移民共同体も、EU的「コスモポリタンお花畑」の夢物語なぞ聞く耳はもたない。

戦争どころか内側から暴力に蝕まれて行くフランスの「あわて方」を見ていると、歴史も規模も地政学的状況も違うけれど、今の日本の「あわて方」と似たものを感じる。

「みんな違ってみんないい」とお花畑をやっているうちに、隣国から恫喝されるは、ヘイトスピーチは蔓延するは、今にも「軍隊」を世界中に派遣する気が満々のような首相が出てくるは、と、「あいまいな日本の私」の「あいまいさ」はいったいどこへ行ったのだろう、と思わざるを得ない。

(日本の「人質事件」で首相が終始発した強気のコメントを聞いたフランス人は驚いていた。フランスは「表現の自由」と言っているが、かなり強い自主規制が働いている分野があって、その一つが「人質事件」だ。

ジャーナリストや人道支援者はもちろんだけれど、だれが観光で危険なところに行って人質になろうと、そのことで水面下で政府がいかなる取引をしていようと、「人質を批判するような言説」はないし、「人質をさらに危険にするような発言」もされない。

この無言のコンセンサスはいったい何だろうと思うが、彼ら自身もそれに気づいていない。

で、日本の首相の強気発言や日本での人質自己責任論(フランスでは、ある人が自己責任が取れなくなった状態に陥ったから国が乗り出す、と考えられている)を耳にすると、驚くし、フランスにある「タブー」にあらためて気づくのだ。

これって、例えば生活保護受給で、生活困窮に至った理由が何であれ無条件で助ける(日本も法律上はそうなのだが)、というのと、それに対して日本では世間の風当たりが強いこととも通じるのかもしれない。
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by mariastella | 2015-03-05 19:37 | 雑感
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