L'art de croire             竹下節子ブログ

区別と差別について

日本に出発する前に済ませるべきことが多すぎて時間が取れないのだけれど、きょう6/26にぜひアップしておきたいことが一つあるので書く。

今から72年前の1943年6月26日、ラジオ・ヴァティカンは

「ユダヤ人とその他の人間とを区別する者はだれであれ不信心者であり、神の戒律に背くものである。

人間が人類という家族のメンバーの中で差別を続ける限り、世界の平和、秩序、正義が打ち立てられることはない」

と四ヶ国語で宣言した。

次の日、ニューヨーク・タイムズはそれを報じた。

ドイツではゲッべルスが電波の妨害を命じたが、メッセージは伝わったという。

当時のピウス12世は共産主義と敵対するあまりナチスと妥協したと後に批判されることもある教皇だが、1931年以来ラジオによって強力ですばやいメッセージを発信してきたヴァティカンのこのメッセージに込められた姿勢は明快だ。

近頃は「普遍主義」に対して「西洋スタンダードを普遍的だとしておしつけるものだ」などという言葉を時々日本のオピニオンの中で見かけるのだけれど、キリスト教が掲げる「普遍主義」というのはまさに、「神の前で平等」である全人類を兄弟、隣人と見なして区別しないという原則に立っている。

皆が兄弟であり隣人であるということは、人間世界の狭い意味での血縁と地縁による「区別」の意識を取り払うということだ。

血縁主義や地域主義は容易に「他者」(「みんなと違っている人」も含む)の排除に結びつくからである。

だから、いわゆる「愛国心の強化」というのも、決して真の「平和」には結びつかない。

それなのに「他者を排除する」という「積極的平和」の志向は、ナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策の頃から何も変わっていない。

今の日本の「内部」であっても、戦後の安全保障政策については、ずっと「日本」「日本人」の中で、「沖縄」と「沖縄の住民」が「区別」=「差別」されてきた事実を無視することはできない。

先日の沖縄の慰霊祭で阿部首相のあいさつに野次がとんだそうで、それを「場をわきまえない」と批判する向きもあったようだが、私は中継で見ていたネルソン・マンデラの追悼式で、群衆が他国の首脳や宗教者には拍手もしていたのに、自国南アの大統領が登場すると激しいブーイングで、席を立つ人も多かったのを見て驚いたのを思い出した。

人々のその反応のおかげで、マンデラの偉業を利用する政治家たちの繰り広げる綺麗ごとの中で、今の南アが実はどういう方向に向かっているのかについて考えるきっかけをもらえたのだ。

あのブーイングに「場をわきまえない」という批判があったという話は、耳にしたことがない。
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by mariastella | 2015-06-26 23:51 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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