L'art de croire             竹下節子ブログ

仏舎利追いかけ 高野山普賢院

この記事を読む前に日泰寺の仏舎利についての記事も合わせてお読みください。

その他、フランスにある仏舎利到着の様子を含めた今までの仏舎利追いかけの記事はこことかここから検索できます。

高野山の宿坊はずっと前に一乗院に泊まったことがあるだけで、今回普賢院に飛びついたのは、朝の勤行の後、摩尼車を回しながら回廊を進んで八大仏跡お砂踏みをしながら仏舎利のある摩尼殿(正確には仏舎利のある地下が光明心殿、地上が金剛薩埵のある摩尼殿)に案内してもらえるというテーマパーク風演出が紹介されていたからだ。

これこそ「日泰寺」で期待したのに得られなかった「功徳」のような気がした。
それにしてもこんなに分かりやすい特典があまり宣伝されていないのはどうしたことだろう。

普賢院のパンフレットには

「仏に会える・・・・宿坊」

がキャッチフレーズとなってはいるが、平成八年にネパールから請来された仏舎利でいつでもお釈迦様と会える、といううたい文句はまあ控えめと言っていい。

実際、空海が唐から持ってきた「仏舎利」は東寺の霊宝館にもあるし金剛峰寺にもあるけれど、「真骨」とは別の崇敬の対象だが、普賢院に「真骨」がやって来たといって、そのスタンスは変わっていない。

今年の5月1日には31年ぶりに大伽藍の金堂で仏舎利を供養する舎利会が執行され、空海と血縁に当たる四庄官が衣冠束帯姿で出席したと6月の高野山教報に記事が載っていた。

この「仏舎利」はせっかく普賢院が獲得した「真骨」とは関係がないし、普賢院のお坊さんでネパールから陸路と海路で仏舎利を運んできた人に聞いても、それには参加しなかったし、声もかけられなかったようだった。

高野山の寺院同士は歴史的に必ずしも仲がいいわけではなかった。いや、仲が悪かった時代も長かったという。

ネパールからの仏舎利請来は、普賢院が単独の関係で手に入れたもの(パタン市のアクセソワール・マハ・ビハール寺院との友好の証として当地にある二つの仏舎利の一つをもらった)であり、宿坊としてのセールスポイントになることは意識していて実際宿泊客も増えたという。
それでも総本山金剛峯寺の名をたてることには最初から気を使った。

「仏舎利招来記念 普賢院平成事業のご案内」というパンフレットにも、普賢院法主の写真ではなく「諸菩薩の銀河となりて来迎す」という句と共に故・森寛紹の写真が載っている。
この人は昭和55年高野山真言宗総本山金剛峯寺第406世座主となり、のち高野山真言宗管長に就任し、仏舎利の来る二年前に亡くなっているが、過去に大阪の普賢院の住職でもあったようで、この人がこの仏舎利招来の原動力になったとすることで、そのような「お宝」を金剛峰寺に寄進するのでなくさりげなく普賢院に祀ることを正当化しているのかもしれない。

それでも、神戸港に仏舎利が到着した時に出迎えたのは金剛峰寺の座主らしく、掲げられた幟には、「真言宗 高野山 総本山 金剛峯寺」と黒々と書かれていて、普賢院の文字はない。

でも、今でも、「舎利会」に使う仏舎利は普賢院に借りに行くわけではなく、「いわゆる仏舎利」であるのだから匙加減が微妙だ。

そもそも「真骨」だから効験あらたかというのは別に密教学とは関係がない。

おもしろいのは、金剛峰寺大伽藍では「仏舎利供養」だが、普賢院では、本堂では永代供養などの「供養」、仏舎利殿では生きている人の現世利益祈願と分けているところだ。

仏舎利をずらりと囲んで、八体仏のうちから自分の干支にちなんだ仏像を祈願主名入りで奉納した人たちが、ご加護を祈ってもらえる。
その祈願主が亡くなると、その名は本堂に移されて今度は永代供養の対象になるわけである。

レンズで真珠ほどに拡大されて見える仏舎利は、実際は米粒大であるという。外観は、ヴァンセンヌの森のパゴダにある仏舎利と同じく、古くなった歯のような感じだ。

高野山は一大納骨場所であり、それは奥の院の弘法大師御廟で即身成仏しているという空海の近くに納骨することで慰霊を願う人々の期待やステイタスの現れだろう。

そのようなありがたい聖なる山であるのに、何度も火災があり、たいていの建築物も仏像も消失している。
それでもその都度、立て替えられて「聖地」が復活したのは、もう寺や教えや仏像がどうとかいうより、石造りであるから火災を免れている墓地自体の聖性を焼失させるわけにはいかないという人々の執念なのかもしれない。

中世までは五輪塔の「水」の部分に納骨の場所があったけれど、室町以降は、五輪塔はシンボルとなって、一家郎党の墓地の指標になっていったらしい。

骨の一片でも分骨されていれば高野山に墓があるということになる「納骨信仰」というのがある。

そんな高野山に「仏陀の真骨」へのこだわりがあいまいなのは、そもそも空海が死んで荼毘に付されていないからで、いまだ生きている空海に毎朝ニ度の食事を供える儀式が続く代わりに、「空海の舎利」という信仰対象は存在しないわけだ。

しかし空海の甥で高野山発展に尽くした二代目座主の真然の、平安時代初期の納骨器が昭和63年の真然堂(1640年上棟)解体修理の時に発見され、以後、「真然廟」「伝燈国師廟」と呼称されて信仰の対象となっていることからも、「遺骨」のインパクトというのがやはり普遍的なものだと分かる。

カトリックで無数の聖人、殉教者の遺骨が崇敬の対象になっているけれど肝心のイエス・キリストや聖母マリアは体のまま昇天したり被昇天(天使に上げられた)したりしているので、遺骨の崇敬はできない。

そのかわりの聖遺物として受難の道具や衣類や乳歯やさまざまな「聖遺物」があるにはあるのだけれど、「遺骨」ではない。

空海も、即身成仏で今も御廟(御影堂)にいるとされているのだから、舎利はなく納骨器もない。
そのかわり、生き続けている空海に一の膳、二の膳、お茶などと食事を運び続ける。

後年、即身成仏を目指す僧らが自ら五穀を断ってミイラ化した史実を思うと、空海が毎日食事を供え続けられる意味は何なのかと思うが、普通の人でも、故人の位牌の前に毎朝陰膳を供え続けるとか、祭りの後に神と共に「直会(なおらい)」をする風習などと集合しているのかもしれない。

空海には遺骨はないが食事をとり続ける「生きた体」がある。

キリスト教でも、イエスには遺骨がないけれど、ミサによって、キリストの体となるご「聖体」や血となるワインを信者が共食する。

方向は逆だけれど、どちらにも、骨ではなくて「体」があり、命の象徴である「食」の行為が伴っているのは興味深い。

そんな高野山だから、空海ならぬ釈迦の「真骨」の登場がどういう風な位置を獲得できるのかは、まさに微妙なのだ。

真言宗から別れた阿含宗がセイロンで手に入れたという真正仏舎利をセールスポイントにしていたのは呪術的な権威づけとして分かりやすいが、日泰寺のこともある。

そのことを普賢院のお坊さんに尋ねたら、なんと「日泰寺」の釈迦の真骨の話をご存じではなかった。

私なら、ネパールから仏舎利を請来できると分かった時点で、日本における仏舎利の受容の歴史についてすぐにネットで検索しまくるのになあと思う。高野山では別の時間が流れているのかもしれない。

でも、空海の「体」が奥の院にあるという信仰は、同じく空海が手がけた寺院である京都の東寺にとってはこれも少しライバル意識を刺激されるところかもしれない。

その辺の雰囲気を探りたくなって、高野山を降りてから、東寺を5年ぶりに訪れた。

すると、

「身は高野 心は東寺に おさめおく 大師の誓い 新なりけり」

と強調されているのが目についた。

東寺から見ると、空海は、「高野山は修禅の場」として開き、そこで得られた智慧を利他行として東寺で実践した、というスタンスなのだが、やはり空海の生身(しょうじん)が高野山で供養され続けているというインパクトは大きいので、「身は高野、心は東寺」と棲み分けを試みているのかもしれない。

そのことを本堂の世話をしている人と話しあったら、その人は

「それは東寺の方が重要に決まっています。お大師様が唐から持ってきたものは経典も曼荼羅もすべてここにあります。高野山には実質2年しか住んでいない、ここには10年おられた」

と熱心に語った。

私の母の実家が真言宗だと話すと、その寺が東寺真言宗だと分かったので親切にしてくれた。(そのお寺の住職であった頼富本宏さんが今年の春に亡くなったことを知った。)

その後で警備員の人に話しかけられたのだが、その人もまた、私が今朝は高野山にいたというと、東寺の優越性を熱く語り始めた。
ただし、空海が東寺にいたのは2年くらいだと言う。

本当のところを調べようと思ったが、高野山にはじめて入ったのは818年だがずっといたわけではない。東寺を賜ったのが823年で、入定したのが835年で、病を得た最後の2年は高野山にいたけれど、何しろ、日本中を布教してまわり寺院を起こし、土木や温泉発見やらにも名を残した伝説の人だから、いつからいつまで高野山にいていつからいつまでは東寺にいたというような単純な計算は不可能だ。

で、「心は東寺」と言っているわりには、ここでも、お大師様の住房であった西院が「大師堂」とされて礼拝の対象になっている。

と言っても、ここも14世紀に焼失したので空海が住んだ当時の建物ではない。
中には弘法大師像が祀られて弘法大師信仰の中心となっている。

つまり奥の院のような「身」ではないけれど、「心」よりは具体的な「像」が寄り所になっているので、人の信仰にはやはり目に見える姿が必要なのかなあとも思う。

しかし、なんと、この大師堂でも、毎朝、像をご開帳して、供物を捧げる「生身供(しょうじんぐ)」が行われているのだ。高野山の奥の院と同じ朝6時に始まる。

「心」はどうした。

しかも、この生身供は誰でも参列できて、何をするかというと、弘法大師が唐から持ち帰った仏舎利を入れた赤い袋が、参列者の頭と手に授けられるのだ。授けるというのは、「あてる」ことで、信者は膝立ちとなって両手を差し出し、僧侶が「お舎利さん」と呼ばれる袋を頭と手のひらに次々とあてていく。いわゆる「按手」のヴァリエーションだ。

ここで使われる仏舎利はいわゆる「玉」だろう。高僧の至誠によって「感得」されて出現するという第二次舎利信仰である。

これは普賢院でも聞いたのだけれど、「仏舎利」の有機的真偽を問わないというのは伝統だったので、昔、津軽に舎利ヶ浜というのがあって、浜に豆粒大の白い石があり、それを仏舎利代わりにしたとも言われているそうだ。

大師岩というのもあって、盆踊り歌にも

「弘法大師が舎利撒いた」

という歌詞があるという。

「身は高野 心は東寺に おさめおく」

なのに、生身供とお舎利さん。

聞けば他の寺にも生身供というのはあるようだが、それは「精進供」が転訛したものだという説もある。

呪術的心性における本物と偽物の問題は私の関心をひき続ける。

今回の高野山は開山1200年記念で資料も充実していて楽しかった。

高野山の諸寺院の本尊で一番多いのは大日如来でなく阿弥陀如来だというのも意外だった。後発の浄土宗の影響が大きかったらしい。

また、高野山大学の学生であるお坊さんから、自分が一番好きなのは薬師如来で、釈迦の他に「人間出身」の唯一の仏だから、と聞いた。

ただし王族だった釈迦とは違い、薬師如来の前身はカースト外の賤民だったので、その人を仏に昇格させることには大きな反対があったのだという。
しかしいわゆる天才治療者として名声を博して、数々の奇跡の治癒をもたらしたので信仰の対象になったのだと言う。
で、賤民出身だったこともあって、この如来だけが、病気平癒の現世利益という枠を与えられた。

もっと詳しいことを知りたいけれど、ネットの検索程度では薬師如来の俗名は見つけられなかった。

高野山でも東寺でも仏像や建築についていくつかの本を買ったが、密教についての二冊の本は貴重な出会いだった。

ひとつは

津田真一の『反密教学』(リブロポート)。

あの密教ブームのポストモダンの時代に真に啓蒙的なこのような素晴らしい本が出ていたのかと感銘を覚える。私が『無神論』などで考えてきたシェーマとほぼ同じことを言っているのにも驚いた。本質的でしかも分かりやすい。
もう一つは

桧垣巧『祖先崇拝と仏教』(高野山出版社)。

これも、大部の本だが雑誌連載をまとめただけあって非常に読みやすく分かりやすい。

土葬と火葬の選好度テスト、火葬と遺骨をめぐる日本と西洋、水子のタタリとしての家庭内暴力、怨霊信仰、霊感商法流行の背景、冥婚(死者結婚)、韓国、中国、インド、チベットアフリカの葬祭事情、地獄・極楽の存在理由からカタコンブ、聖人崇拝、墓参のカトリック的根拠まで、興味深いテーマが並んでいる。

どちらの本も一度読みだしたらやめられなくなるほどおもしろい。

高野山は年配の巡礼グループが多い。東寺にはご朱印帖を手にした若者が並んでいた。スタンプラリーの気分らしい。ここ四半世紀の内に新たないろいろな寺院めぐりができている。

いろいろな組み合わせがある上に百花繚乱、お守りや祈願の方法も多すぎて、複雑な気分になる。
「身代り大師像」が人気なのを見て、今回初めて、なんだかすべての人の罪を贖うために十字架にかけられたイエス・キリストを連想した。奥の院への参道で巨大な「景教碑」をじっくり眺めたけれど、唐における密教が景教の影響を受けていたというのは大いにあり得ることだと改めて思う。

夏でも涼しい山の風、原生林を眺めながら、高野山を満喫する爽やかな三日間だった。
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by mariastella | 2015-07-24 03:00 | 宗教
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