L'art de croire             竹下節子ブログ

サン・マルタン・ド・トゥール( トゥールの聖マルティヌス)

福音書に出てくるイエスの奇跡は33あるがそのうちの24は奇跡の治療に関するものだった。

イエスが奇跡の治療者であったこと自体はキリスト教の成立と直接の関係はない。

でも、彼が治療者として華々しい実績を見せつけていなければ、群衆が彼に従ったり彼の教えに熱心に耳を傾けたりしたどうかは分からない。
ユダヤ共同体の中では、「聖性」は予言や奇跡などの「徴し」と結びついていたからだ。
そして群衆がイエスについてこなければ祭司たちの脅威にもならず十字架につけられることもなかったろうから、復活もなくキリスト教が生まれなかったかもしれない。

医学では証明できない奇跡の治癒をもたらす人はいつの時代のどの文化にもいる。

奇跡の治癒の起こる「聖地」とか「聖なる泉」という場所もある。

場所の場合は軽い放射能を帯びた石があるとか、実際に薬効のある成分を含んだ水があるとか、「説明」できるケースも中にはあるだろう。

人間の場合はいったい何が起こっているのか分からないが、一種の霊媒となって超自然の力を借りて病を治すとか、「気」や「生エネルギー」を集めるとか、念力だとか波動の力だとかいろいろ言われる。

そういう能力の持ち主はブレーン次第では教祖になったり金儲けをしたりすることも可能だろうから、それを見込んでの詐欺やトリックである場合も少なくないだろう。

けれども、少数だけれどそのような能力を持って生まれた人、途中で発見した人、ある種の修行によって獲得した人などは、どうも存在するらしい。

トゥールのサン・マルタン(聖マルティヌス)といえばヨーロッパ最大の聖人の一人で、13番目の使徒と呼ばれることもあるくらいの人だ。

フランスのロワール河畔のトゥールの司教だったのでトゥールのサン・マルタンと呼ばれるのだけれど、生まれは今のハンガリーあたりの人だ。

ローマ軍人を父に持ち、自分も10代半ばでローマ軍の兵士になり、ヨーロッパ中を遠征していたらしい。

有名なのは334年頃の冬、馬に乗ってフランスのアミアンの門近くを通った時、道端に全裸の男を見つけて、剣で自分の着ていたマントを2つに切り裂いてその男に着せてやったというエピソードだ。サン・マルタンの聖画といえばこのシーンが一番有名だ。

こういうわりと上から目線のものも多いけれど、わざわざ馬から降りてマントを賭けてやる図柄もある。

自分は鎧もつけているのだからマントを全部渡すべきではと思うかもしれないが、そこはマントもローマ帝国の支給品なのだから、半分に切るだけでも大した胆力なのだろう。

ともかく、その日の夜に、そのマントをつけた男が現れて、自分がイエス・キリストであったと告げる。

これはマタイの福音書25章の中で「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」のが義人であり、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。」との問いに「 はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と言われることを踏まえているので、まあクラシックな話だ。

でも、その時のマルタンはキリスト教徒でさえなかったのだし、10代の若い軍人の行為としてはなかなか立派だといえる。

もちろん、これだけでマルタンが大聖人になったわけではない。

この後で洗礼を受けたのだが、25年の軍役を終えた後ではじめて信仰生活を志してポワティエに行き、ガリア地方最初の修道院に赴く。

そこで最初の「奇跡」が起こったらしく、その評判はあっという間に広まった。

ということは、当時でも別にたくさんの「奇跡の治療者」がいたわけではなかったからこそ例外的な治療者が目立ったわけだ。

一方で医学は発展していないから病気やけがで簡単に命を落とす人は多く、いったん評判を勝ち取った「奇跡の治療者」に人々が熱烈に望みをかけたのも理解できる。

で、371年にトゥールの2代目司教(最初にトゥールにキリスト教がもたらされたのは3世紀後半)が死んだ時、トゥールの市民たちは皆、天才治療者マルタンに次の司教になってもらおうと考えた。

一番「よく効く」人が司教になってそばにいるべきだと思ったのだ。

しかし修道生活を送っているマルタンは動こうとしなかった。

そこでトゥールのある人が自分の妻が死にかかっているので助けてくれとマルタンに嘘をついた。

「出張治療」のために修道院を出たマルタンをトゥールの人たちが拉致し、町に連れて来て、歓呼によって強引にマルタンを司教に選出した。

55歳になっていたマルタンはロワール右岸に隠遁所を創り、それが後にガリア地方2番目の修道院になった。

それから397年に死ぬまで司教職と共に衰えぬ治療活動を続けたそうだ。

要するに奇跡の治療の天才だったわけだ。

ところがマルタンの死んだのは紛争解決に赴いた先の、ポワトゥとトゥレンヌという2つの地方の境にあるカンド教区というところだった。

その体は光り輝き、皺は消え、7歳の子供の肌のようになったと記録がある。

しかし、ここからがまたみもふたもない。

どちらの司教区がマルタンの遺体を保管するかでにらみ合いが始まり、遺体は鍵をかけた部屋に入れられて両地方の人々が同時に監視した。

ところがどういうわけかある夜、神さまがトゥレンヌに肩入れしてポワトゥ側を眠りこけさせたので、トゥレンヌ側が遺体をロワールまで持ち出して船でトゥールまで運んだ。
それが「恩寵」であることを証明するかのように11/11というのに、船の通る河岸で花が咲き木々は緑になった。

今でもこの地方ではその頃になると「サン・マルタンの夏」と呼ばれる陽気になるという。

で、無事にトゥールに遺体が埋葬され、奇跡の治癒も続いたので聖堂が建てられて棺が安置され、大巡礼地となって、おびただしい奇跡が続いた。

棺の一部なども各地の教会に分けられ、中世、近世と、トゥールのサン・マルタン聖堂はヨーロッパ有数の巡礼地となったのである。その後、1562年に宗教戦争で、ユグノー軍が、そういう「迷信」は許せないとしてサン・マルタンの棺が壊され遺体が焼かれた。(イスラム過激派が聖廟を破壊するのと変わりはない。)

頭蓋骨の一部と腕の一部が見つかって今のサン・マルタン聖堂にある墓で見ることができるのは丸みを帯びたこげ茶色の骨などである。

で、今も、巡礼団は来るし、カルメリテーヌの修道女数名が専属で祈ったり歌ったりしている。

要するに、トゥールのサン・マルタンと呼ばれる大聖人は、トゥールで生まれたわけでも死んだわけでもなく、ただひたすらトゥールで奇跡の治癒を生前も骨になってからも続けたことでここまでの崇敬を得ているのだ。

個人的には、奇跡(と見なせるような)治療者が存在するというのは納得できる。

でもその人が亡くなった後でその骨やら遺品にもその力が伝わっていると見なすのは類推魔術の域でしかないと思う。

もちろんその遺徳を慕う人たちの必死の思いがサイコエネルギーとなってそういう巡礼地にはみなぎっているから、心身症の類なら劇的に治ってしまうかもしれない。

病気快癒を願って祈る人の心は「藁をもすがる」ものだから、「聖人の遺骨」にならもっとすがりがいがあるだろう。

自己治癒能力が爆発するのかもしれない。

ともかく、こういうところに来る人は一発勝負で治癒を願って治るか治らないかで、なんとなく「無病息災、健康長寿」などと祈る場所ではないとは思う。

でもこんな場所でサン・マルタン意匠のメダイだとかマグネットをせっせと買ってしまう人(私のこと)の心理は、マルタンの遺体を必死に持ち帰った人たちの心性からは、遠く、遠く、離れている。
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by mariastella | 2015-08-12 02:45 | 宗教
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