L'art de croire             竹下節子ブログ

子孫に継承させる罪悪感とは

Arteでドイツ映画『生者たち』(監督Barbara Albert 2012)を観た。

ベルリンに住む若い女性がウィーンにいる95歳の祖父の誕生日パーティに出席して父の家でSSの制服姿の祖父の古い写真を見てショックを受けて過去を調べ始める。

祖父はアウシュビッツで士官の子供たちに音楽などを教えていたというのだが…。

ヒロインはユダヤ人の写真家と知り合って意気投合したばかりなのでなおさら悩む。

祖父は亡くなるが、甥(父のいとこ)が生前に祖父にインタビューしていて本にまとめていたのを知る。ヒロインは、祖父が自分は何の良心の呵責も感じていない、今となってはすべて非現実的な出来事だった、とビデオで語るのを聞いた‥云々というストーリーなのだけれど、そして評判も良かったのだけれど、どうしてか私は全く感情移入できなかった。

同じようなテーマのコスタ・ガブラス監督の『ミュージックボックス』(1989)は感動したのにどうしてだろう。

映画としての出来なのか、とも思ったが、やはり、二作の間に四半世紀の隔たりがあり、つまり「事件」がそれだけ古くなっていて、家族関係がもはや父と娘ではなく祖父と孫娘になっていることが一番大きいのではないだろうか。

戦争を知らない世代にいつまでも謝罪の義務を背負わすな、というのはつい最近もどこかで耳にした主張だけれど、ドイツではナチスに全責任を負わせる形でホロコーストを処理したせいか、「ナチスの末裔」のトラウマは今も残るというのは私も見聞きした。

日本人はもともとそこまで罪悪感を引きずっていないのではないだろうか。
皇室が温存されたせいで「天皇陛下のために」戦うと思っていた人たちがそのまま戦後も天皇と同時代を生きて国を復興させたからだろうか。
私の父は戦争で中国にいたことがあるが前線には出ていない。でも、例えば、父が「侵略に加担した」とか考えたことはないし、もし前線で戦っていて殺傷行為をしていたと知ったとしてもそのことで私が罪悪感に苛まれたとは思えない。

いわゆるA級戦犯などならまた別かもしれないけれど、「普通の人々」はやはり犠牲者でもあり気の毒にと思う。

で、私がこの映画のヒロインの立場だったらそんなに悩まない気がするのだ。

思うに、本当にトラウマを深くして世代を超えてまで罪悪感を醸成するのは、

たとえひどいことでも「非常時」におけるピンポイントの蛮行や悪行ではなくて、

「平時」における嘘、隠蔽、偽善の継続ではないだろうか。

ユダヤ人なら戦後みな「犠牲者」に分類されたがドイツ人は「加害者SS」と「普通の人」に分けられて一方が粛清されなければならなかった。
でもみんなドイツ人(後の区分ではハンガリー人やオーストリア人、ポーランド人でもあり得る)だから、見た目だけでは区別できない。だから、過去を偽り隠蔽してサヴァイヴァルした人たちがいる。

父親や祖父がSSだったことよりも、彼らがそれを隠し通してきた嘘の重さ、日常の恐怖、それこそ、謝罪したり赦しを請うたりして区切りをつけることのできないフラストレーションの積み重ね、それらが、次の世代も苛むのだ。

それを思うと、やはり南アのスティーヴ・ビコやマンデラは偉かった。

彼らがもし白人をその責任に応じて粛清しようとしていたら、同じことが起こっただろう。ユダヤ人と同じように黒人はひとまず、みんな「犠牲者」でOKだ。

でも白人は見た目だけでは人道に対する罪を犯したひどい差別主義者だったか黒人解放運動を共に戦った人か「普通の人」なのか区別がつかない。

だから誰がいつどこでどんな「悪いことをした」かの告発合戦が始まる。

ドイツ占領から解放されたフランスでナチスのコラボ狩りがあったのも同じで、同じ仲間同士で自分の身に危険が及ばないよう他を攻めたててスケープゴートにすることもある。

「後ろ暗いところのある人」がそれを隠してこそこそ生きていくことがあるのも理解できる。

「ひどいことをした」ことより「それを自覚的に否認してなかったことにして善人面する」ことの方が重大な結果を生みかねない。「贖罪」ができな。過去を遺棄しては喪にも服せないからだ。

イエス・キリストをとらえて辱めて殺した人々でさえ、イエスから

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23-34)」

と神に命乞いしてもらっている。

群集心理でイエスを糾弾したユダヤ人、命令だから刑を執行したローマ兵、自分の身の安全のために姿を消した弟子たち、みんな、一時の気の迷い、無知と弱さの犠牲者だったとも言える。

みんなまとめて赦してもらったからこそ、キリスト教が普遍宗教として出発できたので、キリスト教では、たとえ犯した行為が「大罪」であったとしても、重大な事柄であること、それをはっきり自覚していること、意図的に行ったことという三つの条件がそろわなければ実は大罪とは見なされない。

過去の誤りを自覚しながら意図的に隠蔽し嘘をつき偽善的に生きることを選択した人たちの「罪」こそが、子孫にまで深いトラウマを及ぼすのかもしれない。
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by mariastella | 2015-08-22 07:28 | 雑感
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