L'art de croire             竹下節子ブログ

フランシスコ教皇の二つのメッセージ

シリアからの大量移民の件で、フランシスコ教皇がヨーロッパのすべての小教区は一組の難民家族を受け入れるように、と訴えた。

カトリックの優勢なハンガリーが「(ムスリムの難民の大量受け入れは)ヨーロッパのキリスト教ルーツをおびやかす」と言ったことへの痛烈なカウンターパンチにもなっている。

パリの近郊のあるブルジョワ教区はすでに難民の2家族を受け入れているレポートを出しているが、それは「中東のキリスト教徒」だ。

フランスではもう見られなくなったヴェールをかぶった少女が聖体を拝受するのを見てみな感動したという。

古き良きキリスト教徒のあるべき姿を見て信仰をリフレッシュできた、と言う。

教皇は宗教の区別などせず、ただ殺されないために逃げてくる難民家族を受け入れろと訴えているので、こういう手軽な自己満足感動ストーリーも吹き飛ばしてしまう。

実は、最初にこの教皇の訴えを目にした時、私は寝ぼけていたので

「すべての家族が難民一家族を受け入れろ」

というのと勘違いした。

もともと部屋数の多い広いうちに住んでいることへの後ろめたさがある。
ホームレスの人々のこともいつも考えていた。それも、地下室とか庭なら提供できるんじゃないか、とかこちらのセキュリティ重視のケチな考えだ。

で、寝ぼけた頭で、もし難民の家族を一組受け入れるとしたら、部屋数はあるし、向いが小学校なので子供たちを学校に通わせるのは簡単だし、両親にはひとまず庭仕事、掃除、大工仕事などをしてもらえば…などと考えてみた。

でも、住居や光熱費や食費は何とかなるとしても、彼らには収入が必要なのだから、その上に賃金を払うとなるととても無理だ。

それにあれもこれも‥と問題点が出てきて、どうしよう、無理だ、と思っていたら、よく読めば「一小教区につき一家族」だったのだ。

これなら十分現実味がある。

たいていの教区の中には人家族くらいになら提供できる場所があるし、子供たちの勉強を助けるボランティアもいるだろうし、そのためにいくばくかの寄付をするとかならハードルはずいぶん低くなる。

フランスには16000の小教区があるのだから、4人家族としてもそれだけで6万人以上を救える計算だ。(9/7、フランスは2年で2万4千人の受け入れをEUから割り当てられた)。

実際は政治的なことを含めていろいろな問題があるだろうからことは単純計算できるようなものではないけれど、それでも、自分が頂点に立つ共同体に向かって迷わずこういうことを訴えるフランシスコ教皇のような人がいることだけでもすごい。

移民排斥の極右政党ですらこの訴えの前では口をつぐんでいる。

もう一つは、第二ヴァティカン公会議50周年の聖年を記念して、妊娠中絶という「罪」の免償の権利をすべての司祭に広げるという通達だ。

これまでは司教、それも特別な場合に限られていた。
カトリック教会では受精卵が着床した段階で「生命」と見なすので妊娠中絶は殺人に匹敵する重い罪に当たる。それをなくすわけではない。告解すれば免償してもらえるということだ。

この「罪」の認識についての現状はどうかというと、少なくともフランスのような国では、カトリック教会しかないような田舎の村で教区の世話をしている敬虔な老婦人であっても、「妊娠中絶が罪」など全く思っていないのが普通だ。

「家庭も持っていない司祭には関係ない」と切って捨てる人もいくらでもいる。

90代のシスターで「生むか生まないかはその女性だけが選択できる」と公然と言う人もいる。

誰もそもそも中絶について告解などしないし、告解しない「罪」などないのと同じ、というのがスタンスだ。

中絶を選択しなければならなかった女性というのは心身にそれなりのダメージを受けているのだから、その上に宗教的な「罪」がどうだとか悩む余裕はないし考えさえしないのが一般的だろう。

この件についての私のスタンスは前にもどこかに書いたけれど、カトリックの首長が中絶を罪だと言い続けることは、中絶したくてもできなかった人や、困難な情況(胎児の障碍が分かっていたとかレイプされた妊娠だとか自身の病気や経済状態、社会環境の困難)にも関わらず産むことを選択した女性たちにとって大きな意味があるということだ。

中絶を選択した人は、たとえ心身のトラウマが残っても、出産と育児にかかわる長く重い責任はなくなるので、リハビリのチャンスもあれば忘却する選択もあるし、多くの女性から無言の連帯を得られる。

「宗教上の罪」なんて無視できる強さもあれば社会状況(フランスのような国)もある。

だから別に罪の免償など必要としていない。

それに対して、中絶しなかった子供の人生を一生背負っていく母親たちが社会的にも経済的にも心身の健康の上でもつらい立場にある時、少なくとも、「中絶しない」という選択をローマ教会が「正しい」「善い」と断言して祝福して心理的に支えるのだとしたら、これは十分に意味があると思う。

しかし、中絶を余儀なく選択した女性の中にも宗教的であろうと実存的であろうと「罪の意識」の落としどころをなかなか見つけられない人がいるのも当然で、そんな女性にそれを「告白して赦しを得る」という場所が提供されるというのもまた、意味のあることだと思う。

今回のことを揶揄して、では聖年が過ぎればまた「罪」になるのか、などという人がいるが、教会は中絶が「罪」ではなくなるとは言っていない。

今回の決定が担うメッセージはただ一つ、

「教会は裁き責めるところではない、受け入れるところである」

というプライオリティの宣言なのだ。

それは難民受け入れのメッセージと全く同じ立場に立っている。

この10月には2度目の「家族」シノドス(世界代表司教会議)が開かれるが、難民の家族の受け入れ、中絶した女性の受け入れのメッセージは同性愛者受け入れと多分同じエスプリに吹かれているのだろう。

「排除しない」という姿勢を保つのには不断の努力が必要だ。
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by mariastella | 2015-09-07 23:34 | 宗教
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