L'art de croire             竹下節子ブログ

カトリック信者の離婚と再婚

9月8日、聖母マリアの誕生日にフランシスコ教皇がカトリックの婚姻無効手続きの簡略化を発表した。

カトリックの結婚は洗礼や聖餐と同じように秘跡だが、司祭から一方的に授けてもらうタイプのものではなくて結婚する二人が司祭の立ち合いのもとに神の前で誓い合うことで成立する。

それを無効にするためには、結婚の誓いをした時にどちらかが自由を奪われていて強制されていたとか、状況を判断できる精神状態になかったとか、一方に騙されていたとかなどを証明しなくてはならない。

証人を立てて微に入り細に入る事情聴取を経て三人の「判事」が無効を認めた後で、また別の三人にあらためて申し立てて同じ結論に至らなければならない。
二百年もこれが続いていた。

これほど長くて費用もかかる手続きを経て得られるものはというと、「教会で再婚できる」という権利だけだ。

だから再婚するつもりのない人や、役所で再婚しても教会で結婚式を挙げるつもりのない人はわざわざ無効申し立てをしない。
フランスでは共和国の市役所で結婚式を挙げた証明書がないとカトリック教会で結婚できないという取り決めになっている。
市役所の結婚式というのはフランス革命の時にそれまで教会のやっていた冠婚葬祭を「共和国」がすべて取り代わってすることにしたものだから、どの市役所にも結婚式ホールがあって、司祭の代わりに市長が司式して証人もたてて行うものだ。

今のフランスではカップルの二組に一組が破綻しているのだけれど、カトリックの結婚式を挙げた人で現役「信者」は、役所で離婚したまま再婚はしないで次の相手と同棲することもある。

これだと、ミサに出て聖体拝受を続けることができるからだという。

しかし役所で再婚したり、同棲のまま同棲相手と子供を産んだりすると、カトリックとしては前の結婚が生きたままだから、「姦通」の罪の状態にあると見なされてもう聖体を受けられない、いわゆる破門状態になるというのだ。。昔そのことで悩んでいる女性に話を聞かされたことがある。

実際は民法的には離婚して次の相手と住んでいるのだからそれはすでに偽善というか変な話だと思った記憶がある。いや、そういうごまかしの状態そのものに悩んでいたのだろう。

カトリックの婚姻無効の裁判と言えばモナコのカロリーヌ王女のものが有名だったのでよく覚えている。確か、彼女がまだ20歳くらいだったのにフランスのプレイボーイと結婚したので、幼くて未熟で判断ができなかったとかいう主張だった。

2年ほど前に知り合いの娘さんがやはりカトリック婚姻無効の裁判をしたのだが、両親とも何度も「出廷」して相手がいかに娘を騙していたか、という証言を繰り返し、ひどく消耗したと言っていた。

その手続きにけっこうなお金がかかるとは知らなかった。

無効は無事に宣言されて彼女は今年別の人(この人も再婚だが奥さんに先立たれたので問題ない)と子連れ再婚し、教会でも再び式を挙げた。
彼女は今も子供の教育などについて前夫から異常な嫌がらせを受けているので、たんなる法律上の離婚ではなく神さまからも「無効」だと言ってもらうことが支えになったのかもしれない。(逆に離婚の上に無効まで訴えることで子供の心を傷つけるのが嫌だという人ももちろんいる。)

教皇は、今回、その無効手続きを、二度の判定でなく三人による一度の判定でOK、しかも無料化すると宣言した。
その他に、婚姻無効の根拠が自明である場合(例えば相手が同性愛者であることを隠していたなど)は、一人の司教の判断でも無効にできるとした。

これらについて教皇が急に考えて決めたわけではなく一年前から特別に選んで託していた委員会の意見に基づいているのだけれど、教皇が条令という形でいったん発表すれば、全カトリック教会ですぐにそれが有効となり、12億のカトリック信者すべてに適用されることになる。

そこが聖霊主義のすごい所だ。

しかも去年に次いで今年の10月に開催される「家族」をテーマのシノドス(世界代表司教会議)のひと月前なので、教会関係者は驚いた。

この「改革」が会議のテーマの一つとして議論が継続されると見なされていたからだ。

それが鶴の一声で確定してしまった。

もちろんすぐに懸念の声も上がっている。

これが「カトリック式離婚」のように広まるのではないか、たったひとりの司教が判断できるというなら、司教によって基準が厳しかったり甘かったりというばらつきが出るのではないか、というものだ。

しかもこの背景には、昨年のシノドスでも司教の意見が二分したもう一つの問題がかかわっている。

すなわち、婚姻無効を申し立てる条件を満たさない離婚をした再婚者が、教会から斥けられ離れるのをふせぐために一定の条件のもとに聖体拝領を許可するかどうかという議論である。

神の前の秘跡である婚姻が解除できないものであるという部分は動かせないので、再婚者(すなわち確信犯的姦通者)に聖体を授けるというのは神学的には原則的に「不可能」だ。

しかし、離婚者、再婚者の数はどんどん増えている。彼らを教会の共同体から排除することは、現実に即していない。

聖年の間、妊娠中絶を告解した人に免償を与えるという考えと同じで、教皇の願っているのは、教会が「裁き罰するところ」ではなく「受け入れるところ」であることだ。

それについて、「物理的にも道徳的にも母親から離れていった膨大な数の息子たち」にとって教会が「母」であり続けることを望む、と表現された。

懐疑の闇の中でずっと抑圧されている立場に光を与えてもらうことを心の中では待っている息子たちのため、彼らの魂に救いを与えることを考えているという。

「心身ともに親の元を離れた」というたとえからは有名な「放蕩息子」の話が連想されるだろう。父に財産を分けてもらって家を出て放蕩し、一文無しになった息子が帰ってきたら、父は喜んで駆け寄って歓迎したというイエスのたとえ話だ。

聖書の中には、やはり有名な「姦通の女」をイエスがかばって罰しないし罰させない(「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」)というエピソードもあるから、その精神から言えば、「再婚者を無条件で排除する」というシステムを改革する意味はありそうだ。

ここで教皇が「父と息子」でなく「母と息子」と言ったのは、教会が「母なる教会」と言われるからだけではなく、やはり聖母マリアの誕生日の祝日の9/8にちなんだものかもしれない。

そう言われると、「パパ」と呼ばれる教皇も、なんだか「母」性的なイメージがする人に見えてくる。

「排除の論理でなく受け入れを」という方針は一貫しているし、この人の言うことならイエスでもアッシジのフランチェスコでもうんうん、と受け入れるような気がする。一方で子供を殺すようなマフィアへの聖体拝受をきっちり拒否するように、原則に外れた歪んだ免償には厳しい。

東方正教でも結婚は秘跡だが、最初の結婚が「失敗」に終わった時、その秘跡は「生きられなかった」ので、離婚した相手と赦し赦される関係に達したかどうかなどの審査を経て、贖罪の祈りとともに、再婚、稀には再再婚でも式を挙げてくれる。

二度目以降は「秘跡」ではないが、「失敗した」人こそ聖餐を必要としているので、彼らを排除することは「さまよえる羊を優先して連れ帰る」精神に反しているからだ。

そこに救いを求めて神に祝福される再婚するためにカトリックから正教に改宗するフランス人もいるほどなのだから、カトリック教会が学ぶ必要は大いにありそうだ。

カトリック教会で再婚者が罪の状態にないと認めるのは、再婚相手と別居するとかセックスレスであるとか言う場合に限るというのだから、明らかに不自然だ。

(なおイスラム教では結婚は秘跡でなく社会契約で、プロテスタントでも秘跡ではなく祝福なので離婚再婚は可能。ユダヤ教では離婚は男性有利で主導だが慰謝料に当たるものが課せられる。再婚は問題ない。)

再婚が重大な罪になる理由のひとつが、例えば他の犯罪で情動殺人のように一過性のものより、意識して「姦通」の「状態」を続けている確信犯とみなされるからだ。(窃盗罪なら返却することができるから、盗品を持ち続けている間は罪の状態が続くので告解や免償が効かない。殺人犯の方が、後で後悔して改悛すると赦される可能性があることになる。逆に、殺人では殺された人はもとに戻らない、決定的な死の情況だが、再婚で愛を築くならそれは新しい生の情況なのだから肯定すべきだという意見もある)。

シノドスにおける再婚者排除の強硬派の代表は前教皇B16と親しい教理省のゲハルト・ミュラーで、

「愛が死んだからと言って結婚を解消できない、結婚の継続は一時的な人間の感情と関係のない神の業」

であるという。

同じドイツ人でも教理省に2013年までいたウォルター・カスパーは、

苦しんで助けを求める人たちの状況を考えてこれまでのパラダイムを変革しなければならない、

という。

その中間として、聖餐という形のコミュニオンはできなくても再婚者が聖体の前で祈るという形のコミュニオンで神の共同体に復帰するという提案も出ている。

離婚が認められない聖書の根拠は

「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない(マルコ10-9)」

で、

再婚が姦通と見なされる聖書の根拠は

「しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる(マタイ5-32)」

ということになる。

そういうものが「神学的根拠」になって規定を作ってきた事情は理解できるけれど、あの南アのアパルトヘイトについてさえ、差別主義側の神学者は旧約聖書のノアの泥酔のエピソードを引用して黒人が呪われて白人に仕え続ける根拠に掲げていたのだ。、一定以上の長さを持ったテキストなら恣意的に抜き出すとどんな結論も導き出せるという例である。

イスラム過激派がすべての暴力をコーランの章句で正当化してみせる手口も同じだ。

テキストの歴史的、社会的、文献学的な文脈はもちろん、「聖典」と名のつくものなら、それを常に生きたものにする霊的な力の流れをキャッチする必要がある。

妊娠中絶と同じで、結婚の失敗は、離婚が成立してもしなくても、誰にとっても心身の負担になる負の体験だ。

その試練を乗り越えて新しい愛と命につながる人生を再構築するために「世間」やら「法律」やらだけではなく人間を超えた「聖なるもの」が寄り添ってくれて、応援してくれるという道を宗教が提示してくれるなら救いになるる。

人生においては、何もわざわざ誰かから「罪だ罪だ」と言われなくても自分の中で澱のように罪悪感をかかえてしまうことがいくらでも起こる。

そんな時、

「あなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない(ヨハネ8-11)」

という声が聞こえて再出発の背中を後押ししてもらえたら、ずいぶんと精神衛生にいいかもしれない。
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by mariastella | 2015-09-10 06:24 | 宗教
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