L'art de croire             竹下節子ブログ

パリ大司教による教会の奉献

(これは昨日の記事の続きです。)

9/13、パリ大司教のアンドレ・ヴァント・トロワ枢機卿がやってきて聖遺物を祭壇に納め、祭壇を聖油で聖別して内陣周囲にはめ込まれた12の十字架も聖別するセレモニーが行われた。

この人はわりとリベラルでいろいろなシーンでおもしろい意見を言う人なのだけれど、まあこういう場所で話すのだから予定調和というか、説教はあまりおもしろくなかった。

ここの司祭が信者に「友よ」と話しかけるのが新鮮だったけれど、大司教は「兄弟、姉妹」で一貫していて、神「父」だとか「パパ」(教皇のこと)とか父権制度を反映している教会システムの呼び名に対して、「父なる神」の前では皆が兄弟姉妹だという平等の原則に返るのはいいことだ。

でもその後で「キリスト教は異教のように偶像やらトーテムを拝むことをせず・・・」というわりには、聖遺骨や祭壇という「目に見えるシンボル」を云々と強調するので、なんだか逆説的だなあと思う。

「偶像崇拝」の心性と「目に見えるシンボルを拝む」心性って紙一重だから。

「生き仏」の前で五体投地するフランス人のチベット仏教信者がいくら

「これはリンポチェという人間を拝んでいるのではなくて彼が体現している智慧を拝んでいるのだ」

と言っても、違和感がありまくりだと思ったのと共通する。

要は、「礼拝」の行為そのものではなく、それを突き動かしている心的エネルギーをどういう方向に向けるのかが問題であって、「拝む姿」自体はリスペクトするべきだとは思うのだけれど。

司教冠、赤いカロッタを被ったり脱いだりするのもなんだか大変で、ミサの共同司式の時だけ、司教冠もカロッタもとって、6人の司祭がミサをあげることにおいては全員平等であることが目に見える。
(ゲストなのか黒服の正教司祭らしい人も信者席で離れて立っていてそれなりに目立っていた。)

そういえば、出席した年配の司祭の1人が、セレモニーの始まる前にこやかに私と連れの方に来て「いらっしゃい」と握手をした。もちろんそばにいる他の人たちとも。
でも、2、3歩あるくとまたくるりと回って戻ってきて、またにっこり笑って「いらっしゃい」と握手した。

明らかに短期記憶が欠けている。

この教会は50周年なので、最初の司祭が招かれたのかもしれないと想像した。

その後のセレモニーの間も、この人だけが立ったり祈ったりせずにずっと壇上の自分の席に座ったままだった。

それでも共同のミサの時には聖体の前に並んで両手を広げていたので、ほっとした優しい気分になった。

侍者の少年たちで一番中央で一番活躍するのが最も若くて背の低い男の子で、司教の前に聖書を広げて掲げても司教が隠れない仕組みになっている。
祭壇の塗油などの典礼の時には小さな子供たちが前に出るようにと言われて、よちよち歩きの子を含めた20人くらいの幼児が前に座り込んだのはほほえましく、座っていた司祭団の1人がすごくいとしそうに微笑んで眺めていたのが印象的だった。

大司教は一番最後に教区司祭があいさつして謝意を述べる時になってはじめて笑みを浮かべてリラックスした表情になっていた。

ルヴェリエール司祭はいつもどおり、すごく幸せそうで、実際幸せだったと思うけれど、こういう典礼で、皆に見られている人たちは司教であれ司祭であれ、侍者であれ、みんな楽しそうにしているべきだなあ、と思った。でないとニーチェにまたなんか言われそうだ。

ここのところ毎日の「難民対策」もあって、司教は絶対に過労気味なのだと思う。

それでもこうやってがんばって「奉仕」しているのは、信仰、責任感、プロ意識、精神力の賜物だと思うが、時々司教杖を持って立っている時に十字架に額をつけて無言で祈っていたので、あそこで何よりも「聖霊」にエネルギーを注入してもらっているのだろう。あの状況であの場所で司教のために祈ってくれている人がいるとは期待していないんだろうな。

祭壇の周りを周って指につけた聖油で十字をなぞっていき、最後は真ん中辺にどばっと注いで、それをどうするかというと、自分で布でまんべんなく拭いて広げるのだ。

祭服の袖が邪魔で司祭が支えていたけれど、自分でもまくり上げていた。

家具を掃除する人でももう少しスマートにやれるだろう。

しかも内陣の壁にはめ込まれた十字架も一つずつ聖油で聖別していくから、手すり付きの移動梯子が使われる。
その度に上っては、手に油をつけて十字を聖別して、手すりに油がつかないように指を布で拭って降りて、また移動してまた昇って、と12度繰り返す重労働。

これも工事の人なら絶対着ないような祭服を着てのことだから、気の毒としかいいようがない。

教区司祭はもちろん事故がないよう必死にサポートしているが、他の司祭たちや修道士たちはお気楽で、壇上からスマホを手に撮影している司祭が2人いた。なんだかアトラクションパークで着ぐるみ来ている人が休憩してジュースを飲んでるような光景だ。

当然出席者たちも写真を撮り放題。

こういうアナクロニックでシュールなシーンを見ていると、なんだかんだ言っても、宗教改革や近代革命や経済至上主義やらが席捲したヨーロッパでとにもかくにも生き延びてまだ昔ながらのことをやっているようないないような、それによって人々の信頼感を獲得しているらしいカトリック教会ってすごいなあとあらためて思う。

聖人の連祷もいろいろな異同があるのだけれど、最初が「主」、キリスト、次が天使、洗礼者ヨハネ、さらに聖母マリア、ペトロとパウロ、福音書史家、その後やっと「マリアの夫ヨセフ」と言われ、マグダラのマリアはどの辺 ?などと聞いているのも興味深い。

抑揚の都合で、ペトロとパウロでさえまとめて呼ばれるのに、この日の主役の一人のルイ=マリー・グリニョン・ド・モンフォールは長いので別格一人呼び出しというのも面白かった。
フランソワ・ド・サル(サレジオ)とジャンヌ・ド・シャンタルはちゃんとカップルで呼ばれているし。

もちろん一部の聖人だけが選ばれている。

最後のあいさつで教区司祭が「聖人の巨大な群衆と共に」と言ったのがおもしろかった。

一昔前なら「軍団」といったかもしれないけれど、「群衆」ってちょっと失礼かも、せめて銀河とか星雲とか、もっと詩的な言葉を使えば? と思ったりする。

コミュニオンの時の歌のリフレインの文句が

「受け取るもの(聖体パンのこと)になりなさい、キリストの体になりなさい、受け取るものになりなさい、あなたこそキリストの体」

だった。

キリスト教が超越神をたてながらも

「神(超越神)が人(キリスト)となる」

ことによって

「人(人間)が神(キリスト)になる」

道を開いたユニークなものだったことを簡潔に表している。

特別の日だからラテン語の歌も、グレゴリアン楽譜付きのものも含めて複数あるし、オルガニストもコーラスもこの日のために練習しただろうからなかなかすてきだった。

この教会は戦後できたものだから当然国や市のものではなくて信者が寄付した土地に建てたカトリック教会の持ち物だ。
でも、19区の市長が招かれて最前列に座っていて、「あなた方も立派な教区民です」と言われていた。

彼らは決してアーメンなどと唱和していなかったけれど、司祭に言及された時と最後に退出する時に拍手する者がいて、それに対して不服を言う声も聞こえた。フランスならではの光景だ。

このような地区には外国人も多いし、普通の日本人が入っても、高野山の宿坊の勤行にフランス人が出席するよりハードルが低い。

文化観察や言葉の勉強のためだけでも留学生などが積極的に通えばいいのにと思う。

儀式が終わったらテントの下に立食で軽食が用意されていて、キッシュやフォワグラにイチジクのコンポート添えのブリオッシュパンとか、なかなか豪華だった。

テーブルのそばで鳩を空に放つアトラクションもあった。

「そこいらの鳩を集めてカゴに入れたんだろうね」、と私がつぶやくと、連れに、「鳩は一番熱心に教会に通うからね」(教会の屋根は鳩の糞だらけ)と言われた。

一羽だけ聖霊のつもりだろう「白鳩」が入っていて、それだけ取り出して子供に抱かせるときに、「その他大勢」の鳩が一羽飛び出して早々と自由の身になったのはご愛嬌だ。

カウントダウンして子供が手を放し、真っ白な鳩が飛び立つ。真っ白、汚れのない、聖なる、というステレオタイプが気になるという人もいるんじゃないかという余計な想像をする。

私が観察とあれこれの想像や感想と歌うことが優先して「敬虔」な盛り上がりに欠けるのはありがちにしても、、教区司祭や彼をサポートする人たちやアイン・カレム信心会の人たちも、敬虔というより、昂揚と責任感、重圧もあって大変だったろう。
少年少女たちもたくさんの役を果たしていたので、その親たちも晴れがましいと同時にどきどきしていただろう。

でも、明らかに過労で疲れている大司教に「彼にしかできない」という「権威」の遂行のためにだけ危険で不便な姿勢を強要しているような光景からは、少なくとも私には「信仰」とか「福音」とかは伝わってこなかった。まあそういう「お祭りを大切にする柔軟さ」がカトリック教会の長命の一因なのかもしれないけれど。

2週間後には「パリのルルド」と呼ばれる9区の教会でカトリック・カリスマ派が開催している「病者の祈り」に行く予定だ。そちらは多分すごく「濃い」と思うので、少し、怖い。

(同じ9/13、メルケル首相が難民に対して突然オーストリアとの国境を閉鎖した。ポーランドの司祭は「(教義以外については)教皇の無謬性は適用されないのだから呼びかけに応える必要がない」と言ったそうだ。)
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by mariastella | 2015-09-15 00:14 | 宗教
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