フランシスコ教皇のアメリカ議会での55分にわたる演説を読んだ。
いろんな人の逐一の解説もすでに出ている。
教皇は、自分もまた「アメリカ大陸の子」であることを利用して共感的に語っている。
この辺は、微妙と言えば微妙だ。
これまでヨーロッパの旧大陸の教皇の「上から目線」はやり過ごしてきた北アメリカが、「南米出身の教皇に叱責されたくない」という気持ちはあるからだ。
でも、公式のテキストにあった
「政治が真に(人格としての)人々に奉仕するべきものならば、経済や金融に屈服するべきではない」
というフレーズを教皇は敢えて読まなかった。
その辺の機微をよく心得ている。
演説の中で言っているように、善と悪のような二元論を避けること、二元論的に保守と革新とか自由と共産とか宗教と無神論とかいって対立したり排斥したりしあっている者たちの間に橋をかけることが教皇の使命なのだから、キューバで政府の人権弾圧を直接非難しなかったようにアメリカの新自由主義経済も直接非難しないわけだ。
正論によって追い詰めない、というのはこの人の一貫したやり方で、プラグマティズムと福音主義がうまく両立しているとも言える。
その代わりに、アメリカのクラシックな建国の精神に訴える。
アメリカは金の上に築かれたのではなく兄弟愛と連帯のもとに生まれたのだ、と(先住民を殺したとか差別したとかは言わない)。
そしてそのような真のアメリカ精神を体現する4人を挙げるのだが、リンカーンとキング牧師は奴隷解放と黒人差別撤廃で分かりやすいとして、後の二人が、プロテスタントの生まれだけれど無神論的で共産主義に共感して社会運動に取り組んだ後で、カトリックに改宗したトーマス・マートンとドロシー・デイだという取り合わせがなかなかおもしろい。
トーマス・マートンは神父でトラピスト修道士で、第二ヴァティカン公会議以降の仏教との対話でも知られる。
ドロシー・デイはフェミニストでもあり、デモに参加して70代で逮捕されるなど過激な社会運動家であるけれど、列福調査が始まっているくらいだから、「模範的なカトリック」であることは確かだ。
演説の中でおもしろいと思ったのは、中絶に反対するアメリカのカトリック保守勢力が死刑には反対しないことの矛盾をそれとはなしについていることだ。
教皇が死刑制度を批判するのは分かっていたので、これに触れたとたんに拍手は半分になったそうだ。
保守派の議員たちはtwitterで、JP2が1995年に出した「命の福音」の回勅の中(56)で社会の防衛がそれ以外に不可能な時は死刑があり得ると書いてあると口をそろえて言うのだが、そのすぐ後に、刑法組織の進歩によって今はそのようなケースは事実上存在しない、とあることには触れない。
宗教的なテキストを前にした時に全体の流れをつくるエスプリを見ずに、自分の都合のいい部分だけを抜き出して立場を正当化するというのはありとあらゆるところで起こっていることだ。
家族の重要性やエコロジーについてももちろん触れていた。
国連での演説とフィラデルフィアでの説教と合わせて全体像が見えてくるのだろう。