L'art de croire             竹下節子ブログ

家族シノドスがめざすもの

今月末からローマで開かれる第二回家族シノドスの特別書記長ブルーノ・フォルテによるとシノドスの目的は、家族に関する教義の確認ではなく、今の世界でどんどん増えている、人生で愛にまつわることで傷ついた多くの人に寄り添うことだそうだ。(la Vie no.3655)

その中にはシングル・ペアレントの家庭、離婚者、再婚者らの問題が含まれている。

JP2も家族についてのシノドスを開いたのだが、34年後の今は状況が大きく変わった。

フランシスコ教皇の故郷であるアルゼンチンではなんと今では90%のカップルが結婚より同棲を選択するのだそうだ。
これはすでに「家庭の危機」などではなく、カップルが共に暮らして子供を育てるために公的な制度に参画するという意味の「結婚」の危機でもある。

カトリック国でもそうだとしたら、「婚外子」が少ない日本なんて優等生もいいところだけれど、子供をつくるには結婚するというのがデフォルトである国だからこそ、それがうまく行かなくなった時の離婚も増えている。

結婚しない国では相対的に離婚も減って来る。

そんな世界でカトリック教会が考えたいのは、

1. 今の世の中でファミリーの美と真実をどのように伝えるか、

2.司牧生活で出会う(ファミリーに関することで)傷ついた状況にある人々をどのように癒し、また寄り添うことができるか、

という2つだそうだ。フォルテ師の話をさらに聞こう。

なぜファミリーはそんなに大事なのか ?

1.人はファミリーの中で人格形成に必要な愛をうけるから。

2.世代間、きょうだい、親戚などとの関係を通して社会的存在であることを学ぶ場所であるから。

3.ファミリーは教会の中で生きるということを学ぶ場所、両親が信者であれば信仰とは何かを学ぶ場所であるから。

4.ファミリーは神が、一人一人が聖性への呼びかけに応えるために用意した使命を発見する場所であるから。

これらゆえに、カトリック教会はファミリーが世界にとってひとつの福音であることを伝えなければならない。

しかしその過程において誤り傷ついた者たちをどのように慈しみ統合していくかが緊急の課題だ。

彼らに慈しみの言葉をかけることのできる形を増やす必要がある。

彼らが傷を治して立ち直り、過去と和解して新たな交わりに入っていけるようにどのように助けられるか、彼らを迎え入れ慈しむことをどのような形で表現するか、を話し合わなければならない。

再婚者の場合も、贖罪のための不可能な条件(セックスレスなど)を課したりせずに、過ちを意識化したうえで教会の中に受け入れられる道を開く必要がある。

再婚者に悔悟の心と神を求める心があれば、一生聖体拝領できない状態に置くのではなく段階的に再び共同体に入れるように助けるべきだというのが教皇の考えだ。

福音の中心である慈しみは具体的で実効性のあるものでなければならない。

教義を厳格に適用するだけでは慈しみの解決の場所がなくなってしまう。

教皇の新しい考え方は、教義をその強さと美しさにおいて提示しながらも人それぞれの現実を無視してはならないと言うことだ。

その現実を見ることなしに教義を押し付けるのは赦しを求める人に対するイエス・キリストの福音の呼びかけから外れてしまう。

教会から遠ざけられた、捨てられたと感じて苦しんでいる人に、恵みと赦しと慈しみの道を見つけることが大切だ。

個々の人を見ない教義は福音的ではなくイデオロギーとなる。

教皇は教義の人であるが、真実の中にはいつも慈しみがあるとする。

逆説的な2つのものを結びつけるのは、神が人となったイエス・キリストについていくこと、神の真実を人間の歴史の中に求めることを分かち合うことだ。

(フォルテ大司教は聖餐の秘跡のラテン語「pro multis」の訳で、「すべての人」派から「多くの人」派に2012年に「転向」した人だ。その辺の事情はややこしいので書かないが、なるほどと思わせるものがある。)

「規則の適用はケース・バイ・ケース」で、というのはしごく当たり前のように見えるが、実は2009年にブラジルでレシフェ事件というのがあった。

義理の父にレイプされて妊娠した9歳の女の子に妊娠中絶の手術をさせた母親と手術した医師をレシフェの大司教が破門した事件だ。

少女は1m33で36キロ、貧血で、双子を妊娠していた。

放置していたら死の危険があった。ブラジルは中絶禁止の国だが、レイプと母親の命が危険な場合は容認される。

この時はまだ妊娠させたのが誰かは分からなかった。23歳の義理の父はその後少女を6歳の頃からレイプしていたと供述、14歳の障碍児である少女の姉も同様な目に合わせていたと分かって逮捕された。

少女の実の父は福音派で中絶絶対反対論者だった。手術をした医師は信者だった。

この件で、大司教からは少女をいたわる言葉もなければ義理の父を責める言葉もなかった。

ただ教会法が機械的に適用されただけだった。

このことが多くの人にショックを与えたのにヴァティカンの教理省は教会法のテキストと、大司教の権限について役所的な見解を発表しただけだった。

それだけがローマ教会の公式な対応だったのだ。

この時、フランシスコ教皇は隣のアルゼンチンの首都の大司教だった。

今回中絶に対して、聖年の間の「赦し」の可能性を発表したフランシスコ教皇の言葉は、女性に直接話しかけ、彼女らの痛みを共有しその状態を不公平なものだと顧みるものだった。

告解によって「赦し」が可能だとわざわざ言ったのは、本当は、中絶で罪悪感を抱く女性はしばしば自分で自分が完全に赦せない、過去と和解できないのだということを分っていて、その内なる罪悪感から女性を解放しようとしているのだろう。

それには神の愛の仲介がいる。

教会との和解よりも、神との和解による自分自身との和解が大切で、教会はそれを助けなくてはいけない、というのが教皇のスタンスなのだ。

妊娠や出産は「普遍」が「特殊」の中に侵入してくる出来事だ。

「愛」や「愛の誓い」も、理屈や法律を超えた出来事だ。

それらにおける不可逆な「失敗」の前には、どんな理屈も法律も手術も薬も、深い所では無力でしかない。

それを深い所で癒してくれるのは、失敗や成功や従順や反抗などという物差しを超える無限の存在が与えてくれる無限の赦しと愛だけで、教会はその慈しみの橋渡しをしなくてはならない、と教皇は考えるのだろう。

(これに関する前の記事はこれこれ
[PR]
by mariastella | 2015-09-26 21:55 | 宗教
<< ヴィジェ・ル・ブランの回顧展と回想 アメリカ議会のフランシスコ教皇 >>



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
カテゴリ
検索
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧