L'art de croire             竹下節子ブログ

パリの奇跡の治癒の話 その6

(これは前回からの続きです)

ティエリー神父がした最初の話はあまり記憶にない。

以前のセッションで治癒した例をいくつか挙げ、一人の女性が体験談を語る。

ルルドの奇跡認定やら列福列聖での奇跡調査などと違って、難病とか死に瀕したとかいうような劇的なものはない。

もちろん「奇跡の治癒」という言葉を公式に使うわけではない。

「突然の治癒」、「説明できない治癒」が基本だ。

「奇跡」ではなくて「恵み」である。

だからその内容を聞いて感心したわけではなく印象にも残らなかった。

ゲストによる「証言」もyoutubeですでに見たものと似たり寄ったりだ。

私が感心したのは、それらすべてが、当然のように、誰もが疑わない既知の事実のように、ほとんど事務的に、しかし冷たくはなく「熱い確信」を持って進んでいくことだった。

集会の最後に、聞き取れなかったのだけれど、変なことを言った。

「あ、それから、皆さんの中でうちに『xxxのバイブル』(だか何だか)を持っている人がいましたら、すぐにゴミ箱に捨ててください、あれは悪魔から来たものですから」

というのだ。

なんのことか分からなかったが、推測できるのは、その悪魔から来ているとかいうおそらくカルト教団か何かの出しているオカルトの本を大事に持っている人と、この教会の集会に出ている人とが一部重なっているということだろう。

巷には民間呪術のような本もたくさん出ていて、奇跡の治癒や願い事をかなえてもらうためにキリスト教の用語や祈りを使うものもある。

そのうちの特定の本の愛読者、あるいはグループがカリスマ刷新運動と親和性が高いのかもしれない。

カリスマ刷新運動はなんといってもヴァティカンお墨付きだから、「すべての人を救う」のはいいとしても、魔術などへの逸脱は困るのだ。だから誤解を招くような特定の本の名が挙げられたのだろう。

神父が退場する前に、

「信心グッズの祝福をしますから、皆さん、メダイ、ロザリオ、聖画など持っているものがあればそれを手にもって掲げてください」

と言った。

「すでに、祝福を受けているものはその必要はありません」

とも言った(ここには毎週通ってくる人たちもいる)。

私は反射的に「何かないかな」とバッグの中を探す。

パワースポットでパワーを分けてもらうという感じで、こういう時は、「もらえるものは一応なんでももらっておこう」「チャンスを逃したくない」というケチな心に支配される。

思わず、ペンダント時計につけているアヴィラのテレサの小さなメダルを手にとってしまった。

神父は、「癒し」にまつわる言葉をかけて「祝福」をした。

その後で、そうだ、このメダルは、すでに某司教に祝福してもらってたんだっけ、と思い出した。

「すでに、祝福を受けているものはその必要はありません」って言われたのに。

でもわざわざ言われるってことは、二重に祝福してもらったら上書きされてしまって前のが消えちゃうってこと? 

こんなところでみんないっせいの祝福を受けたら、そのせいで以前の個別の祝福がメモリーから消えたかも。

失敗失敗。

「パワーの注入」なら何となく、時々「更新」しといた方が「効き目」がいいような気がするけれど。

まあ高野山でも「三鈷の松」とか、いろんなものをいただいたり買ったりしたけれど、「お守りコレクション」化してるので、何をどう祝福してもらってももらわなくても「心が伴わないと無意味」だというのはよく分かっている。
でも、万一ってこともあるから、あやしいものはコレクションしない。
あやしいものほど、こちらが信じていなくても悪の力を発揮して侵入してくるような話は古来よくあるからね。

さて、祝福を終えた神父が退場してからも、人々は出て行かなかった。

何が始まったかというと…(続く)
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by mariastella | 2015-10-03 05:42 | 宗教
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