L'art de croire             竹下節子ブログ

カトリック教会と同性愛

昨日の記事について、フランシスコ教皇がゲイを裁かないと言ったことの文脈について質問があったので補足しておく。

まず、2013年の夏、L’Espressoという週刊誌が、教皇によってヴァティカン銀行担当に任命されたばかりの神父バティスタ・リッカBattista Riccaが同性愛者であることについて報道した。

事実関係についてはその後何の反論コメントもなされていない。

そのことを受けてフランシスコ教皇は、一般人でも聖職者でも修道女でも罪を犯した後で回心する(神に心を向ける)なら主は赦し給う、と述べ、同性愛のセクシュアリティを持つこととそのロビー活動をすることは区別しなければならない、とした後で、先の記事に書いたコメントがあったのだ。

教皇はこの9月に訪米した時、ワシントンの教皇庁大使官邸で教え子であるYayo Grassiという人が19年来暮らしている同性の相手といっしょにやってきたのを謁見した。

同じ日に、同性婚の登記を「良心的拒否」したKim Davisという人も謁見した。
ケンタッキー州の役人で、9月の初め、自分の宗教が禁じているからと言って同性婚を受けつけず、身柄を拘束されて、釈放された時はキリスト教保守派に熱狂的に迎えられた人だ。

ヴァティカンからは教皇の謁見は彼女の活動を支援するためではないとの発表がわざわざなされている。

同性愛に反対する人であろうと、それを掲げてロビー活動する勢力とは一線を画したいということだろう。

今回カミングアウトしたCharamsaはこのような教皇の理解ある態度を歓迎していたが、バルセロナで、教会における同性愛の実態についての暴露本を書くとも言われている。

今回のカミングアウトも、カミングアウトをする勇気のない多くの同性愛聖職者に捧げるものだと述べている。そういう挑発はフランシスコ教皇の好みではないだろう。

しかしある人が同性愛者であると自覚することと、それを実践すること、隠すことは別々の問題だ。

「神に向かう」ことも別の次元だと思う。

最近、チリでミゼリコルディアという貧しい人を支援するボランティアをやっているフランス人とブラジル人のカップル(男女)の話を読んだ。

ロマンとレナの二人とも、若くしてほぼ神秘体験みたいなものを経て、一生を貧しい人のために捧げようと決心して活動していた。

で、スラムで出会い、一目ぼれ。

ロマンは「自分はマザー・テレサを召命から引き離そうとしているんじゃないかと」思い、
レナの方も「自分は未来の司祭に恋をしてしまった」と焦ったという。

で、二人はめでたく結婚して、四人の息子ができて、ミゼリコルディアという貧民支援組織を立ち上げてスラム街に住み、医療や経済、教育などの支援活動を続けている。 
すごく幸せそうだ。
まだ修道院に属したり司祭叙階されたりする前に出会って本当によかったね、という感じだ。

結婚して子供ができたことで、貧者支援の使命感が消えるわけでもなく、愛し合い、さらにパワーアップして活動にいそしんでいる。

カップルが同じ信仰や使命感を持って支え合いながら喜びを持って困難に向かっていくというのは理想的に見える。

プロテスタントの「牧師夫婦」というのともちょっと違うし、日本で寺の跡取りの所にお嫁に来る女性とか婿入りして僧侶になる男性とかとも違う。

家庭、連れ合い、子供などに煩わされないで全力で使命を生きることに生きがいと充実を覚える人だって少なくないだろう。

折り合いをつけるのが一番難しいのは、ひょっとしてセクシュアリティではなくて、恋愛だったり愛する人と「家族」をつくりたいという気持ちだったりするのかもしれない。
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by mariastella | 2015-10-10 02:07 | 宗教
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