L'art de croire             竹下節子ブログ

数の話 (難民問題における量と質)

Causeurの10月号で2人の哲学者のメールのやりとりが紹介されていて、その中でなるほどなあという話があった。

今の難民は昔の亡命申請者とはだいぶ違うというのだ。
イタリアの難民収容所に収容されたムスリムの人たちはハラール(イスラムの方式で屠殺された動物の肉)の肉を要求したり、女性の看護師を拒否したりする。
どこでも難民の集まるところはごみ溜め状態になっている。
暴行や盗みも横行している、など。

これは、なにも、時代が違うとか文化が違うとか宗教が違うからではない。

違うのは「数」なのだという。

亡命してきた人は、迎える国ではマイノリティで弱者というステイタスになるけれど、一定以上の「数」より多くなると、数が力となり、力が無法行為となるというのだ。

ユーロトンネルをフランスからイギリスへ向かう難民たちも、昔は顔を隠していたりしていたけれど今は堂々と電車を止めている。

弱者でも犠牲者でも集まって行動したら何かが変わるのだ。

量が質を変えるのと同じだ。

こういう映像ばかり流されると、「ほんと難民の群れって怖いですよね、やだやだ」という極右の人気がまた上がるのも無理はない。

数というのは不思議だ。

今年のはじめ、シャルリー・エブドのテロの後でフランス中で400万人が表現の自由と共和国理念を訴えてデモをしたことがあった。
すごいことであったはずだけれど、それでも、フランスの人口は7000万人なのだから、6600万人は何も訴えていない、と言う数え方をした人がいた。

日本での安保法案反対で国会前に人々が結集して感動を呼び起こしても、しょせん普通の人ではない、プロ市民か動員された人か一部の左翼か左翼上がりかと言われる。

かと思うと議会の中では、過半数の議席を持つ与党連合が好きかってなことをする。

数が一定以上を超えると力になるのかならないのかは相対的なようにも見える。

新自由主義の金融資本主義の社会に君臨する「マネー」も同じで、ある額を超えると自己増殖して絶対に減らないという境界の数字があるかのようだ。

これはやはり数や量を離れて、「力の行使」や「力の発露」のロジックに参入しないで考える必要がありそうだ。

たとえマイノリティでも弱者でも、そういう相対的なアイデンティティをいったん消し去ったところで、普遍のフィルターを通して他者と共生する道を目指さなくてはならない。

毎日の生活においてすら難しそうなことだけれど、さしあたって難民にもならず目先の平和と安全を享受できている人はなおさら、それについて考える義務があるような気がする。
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by mariastella | 2015-10-15 03:22 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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