L'art de croire             竹下節子ブログ

カトリック教会によるキリスト教社会主義

前の記事ではJP2も新自由主義経済を弾劾していたことを書いたが、もともとカトリック教会は、第一次産業革命によって都市型の貧困が生まれた時代にも警告を発している。

都市におけるキリスト教社会主義には大きな四つの柱がある。

個人の尊厳、共通善、援助、連帯、の四つだ。

それは変わっていない。

昔は機械化製造業における工場労働者の搾取というのが問題だったけれど、今の産業革命はデジタル化と金融資本主義だ。

資本家が労働者を搾取するという構造ではない。
「人間」が見えない。

フランシスコ教皇が弾劾するのは環境や消費行動も含めた「廃棄文化」だ。

物だけではなく、競争に負けた人、競争に加われない人が排除されたり廃棄されたりする。

今やどんな大国も金融経済の指針に従って政治プログラムを作っている。

そこにユニヴァーサルなメッセージなど盛り込めるわけがない。

アメリカはいわゆる「価値観外交」をしているが、彼らのおしつける「民主主義」は偶像でしかない。

「民主主義の勝利のために戦争をする」というのは「神の名において戦争する」聖戦と変わりはない。

「神」や「宗教」や「民主主義」や「普遍主義(人を生まれ育ちや人種、性別、宗教信条で差別しない)」そのものが機能しなくなったのではなく、それらを都合のよい大義にすりかえている人間の欲望が本来の理念を捻じ曲げているのだ。

フランスなどでイスラム原理主義を批判する時に、

「自分たちは蒙昧な宗教の段階を卒業して大人になったのに、イスラム世界はまだ蒙昧の域にとどまっている」

という言い方がされることがある。

そのような誤った進歩史観はキリスト教から来たのではなく、キリスト教を否定するところから来たのだ。

「宗教を卒業」しても新たに「民主主義」を絶対教義に偶像化して恣意的に使ったり、マネーの神に仕え崇拝したりしているようでは、何のために「宗教を卒業」したのか分からない。

これに対して、JP2がちゃんとカトリック教会の過去を反省し謝罪したように、「宗教を卒業」するのでなく「宗教の蒙昧を卒業」する努力が必要なのだ。

人間にとって聖なるものは「自分たちの弱さと限界を知る」ことにあると彼らは言う。

「相対的強者は相対的弱者に仕えよ」というキリスト教のルーツにあるメッセージを生きようとたえず意識化しない限り、人はたやすく偶像崇拝やエゴイズムの罠に陥ってしまう。

科学技術の進歩はあっても、誘惑を前にした人間の進歩はない。

それでもフランシスコ教皇の米議会演説があれほどに歓迎されたのは、彼らのキリスト教ルーツにまだ残っている琴線に触れたからなのだろう。
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by mariastella | 2015-10-24 03:07 | 宗教
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