L'art de croire             竹下節子ブログ

大司教の話と大統領の話

11/15の日曜夕方、ノートルダム大聖堂で、テロ犠牲者の追悼ミサがあった。

弔鐘は6h15だった。

聖堂内は満席だけれど、入場制限があったのだろう、立っている人はひとりもいない。

でも聖堂前の広場は一般の人たちでいっぱいになっていた。もちろん囲われていて警備はされている。

ジスカール・デスタン元大統領やフランソワ・フィヨン元首相などが参列しているだけではなくちゃんと並んで聖体拝領をしている姿がテレビで映っていた。

さて、パリ大司教のディスクールだけれど、キリスト教とかカトリックとかいう言葉でなく「共和国の価値観」を強調していた(共和国の価値観の基礎がキリスト教普遍主義にあることはフランスのカトリック教会にとっては自明である)。

そして、破壊の力に対して信念と落ち着きを持って戦うことを呼びかけた。

我々(共和国理念を共有する人)の生き方の何がいったい蛮行を挑発するのか? との自問もあった。

「自由」だろうか。「自由」がイスラム過激派を怒らせるのだろうか。しかし我々はその共和国価値観のもとで実はどのように暮らしているのだろうか ? (これは、今の自由主義国が自由放縦、弱肉強食で本来自由と並ぶべき平等や兄弟愛という部分を忘れているのではないだろうかという警告 かも?)

フランスが特に狙われるのは、イラクやシリアへの空爆もあるけれど、そもそもフランスの政教分離の徹底と個人主義がISの気に入らないのだという記事も外国のメディアに現われている。

アングロサクソン国などは一応「神の加護」を政治家も公に口にするけれど、フランスは絶対にしない。

終末の夜、みんなが楽しそうにカフェやレストランのテラスに繰り出してワインを飲み、タバコを吸い、歌ったり踊ったりするパリ。サッカースタジアムが満杯になるフランス。
イスラム過激派が音楽もサッカーも禁止するということは2014年のカンヌ映画祭で話題だったモリタリア映画『トンブクトゥー』の場面でも有名になった。

そして、フランスには「神を信じない自由」がある。これが一番のリスクだというのだ。

いや自由主義諸国(民主主義国とは言わない。選挙さえあればイスラム民主国と称するものもある)ならどこの国でも信教の自由はあるし、「日本人は無宗教」などともよく言われる。
けれども、日本人の無宗教と呼ばれるものは「無関心」がほとんどで、「神仏を信じていないから初詣にはいかない、お宮参りをしない、葬式に坊さんを呼ばない」、などという「信念」を表明する人などいるとしたら超少数で、「イデオロギー」として成立するわけではない。

フランスはイデオロギーとしての無神論が成立した国で、それも血を流して試行錯誤の末に到達した境地だったから、カリカチュアや冒聖、冒瀆も「自由のシンボル」としての歴史があるわけだ。

しかし、この「自由」の名の下での人生の謳歌の仕方が、一部の若者にとって「暴力」を「理想」に変化させてしまう何かを誘発しているのだろうか。

コンサートホールの犠牲者の国籍は19ヵ国に渡りそのほとんどは30歳以下の若者だったと言う。

そして、フランスで、イスラム過激派に洗脳された若者の3分の2は15歳から25歳なのだという。

この断絶のもとを共和国の学校教育にさかのぼって考えなくてはならない。

先ほど大統領がヴェルサイユで演説したのを中継で聞いた。

時代に合わなくなった憲法の改正のことも言っていて(フランスは時々憲法改正している)、日本のことを考えざるを得なかった。同じことを言っても誰がどこで言うかによって受け止められ方も実際も大きく変わる。

もうシリアでの報復空爆を開始して成功したとか勇ましいことを言っていた。

今度の状態を「戦争」と言い切るのはISを国として扱うことにならないかという懸念の声もあるのだけれど、緊急事態宣言を3ヵ月に設定して、すでにブラックリストには載っているけれど通常では手が出せないあちこちの強制捜査、家宅捜索、危険人物の召喚、尋問などをすごい勢いで進めている、と聞けば、チキンな一市民としてはそっちの方はがんばってくれと言いたくなる。

でもシリアからの指令を受けてヨーロッパテロを計画遂行する中枢部はベルギーにあるそうで、もともとベルギーのユダヤ施設でテロがあってフランスに逃げてきたり、1月のフランステロに続いてすぐにベルギーでも騒ぎが起こったり、8月、アムステルダムからパリに向かうTGV国際列車のテロリストはブラッセルから乗車したり、今回も実行犯がベルギーに逃亡している(というか戻っている)。

テレビでベルギー人はもともと「国家」嫌いなので緊急事態態勢がとりにくいと言っていた。はじめて耳にする表現だったけれど何となく納得する。

しかし私はこういう時に大統領だの首相だのが発するimpitoyableな報復、戦い、という形容詞が嫌いだ。

「容赦しない」という意味で、おいおい、それはテロリストが使っているのと同じ語彙だろう、と思う。

でもこれが連発されるということはこの言葉を待っているあるいは要求している多くの人々がいるからなのだろう。

大統領なら絶対に使うけれど大司教なら絶対に使わない言葉で、カトリック教会は少なくとも十字軍だの異端審問だのという負の歴史から学んだ経験資産を生かさなければならないという自覚があるということだ。

先日のミケランジェロの祈りの記事
ではないが、「主よ、容赦ない暴力の行使なしに正義と平和を実現することを望むというお恵みを私にお与えください」と祈ることが正解なのかもしれない。
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by mariastella | 2015-11-17 02:24 | フランス
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