1月始めに大阪で吉井秀文さんにお会いした。
「彫空の本」をいただいた。
透明ケースに洗剤と水が入っていて振ると泡でいっぱいになる。
吉井さんはその中から面白いかたちを取り出してデッサンしたり立体にしたりしている。
その意外さを去年パリで見せていただいた。
どうしてこのような特別のご厚意にあずかれるのかと不思議に思っていたのだけれど、彼がパリ滞在中の作品について過去に私が書いたコメントを気に入ってくれて、何度も読み返してはこれでパリに行った意味があった、と思ってくれたそうなのだ。
ものを書く人間として、アーティストにそのように喜んでもらえたのは光栄で嬉しい。
書斎の本棚において、取り出してケースから出して振って泡を眺めるとおもしろい。
一つの泡が他の泡たちと多くの接触面を持っているのだけれど、それぞれ凸面であったり凹面であったり平らであったりする。
ある人が生きている時の対人関係もこういうものだろうなと思う。
ありとあらゆる方向から「境界」を押し付けられてアィデンティティが形作られ、しかも平等な関係なんて一つもなく、相手に侵入され気味だったりこちらが相手を侵食していたり、ぎりぎりのバランスを保っていたりする。
しかもそのすべての「面」が絶えず微妙に動き、その相手が別の面でつながっている他の無数の泡たちの形や圧力や弾力と連鎖、連動している。
吉井さんがその中の一つに注目して「個」を抽出しても、その形にはその「個」を形成している世界のすべてがひしめきあっているのだ。
そして、その「個」の中身は「空」なのであり、「個」は「境界」とのせめぎ合い、拮抗の力関係が作る緊張の内側にしかない。
そのような、他者とのあり方だけで特別な形になった一つの泡を吉井さんが取り出して境界をなぞるとき、中の空とそれを規定していた外が反転する。
それが彫空。
透明の本をゆっくりふっていると宇宙を手にした気分と、泡に埋没する気分の両方が同時にわき起こる。
創造した後、その「跡」を作品として提示するのではなくて、いつも創造の躍動そのものを提示しようとする吉井さんの冒険は続いている。