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L'art de croire             竹下節子ブログ

イラン映画 『Nahid』とイスラム・スカーフ

イランの若手女性監督による映画『ナイード』鑑賞とそれについてのディスカッションに参加した。

監督はIda Panahandeh

前にこの映画とかこの映画の記事を書いたファルハディ監督の弟子的存在。

ファルハディほどのサスペンスフルな強靭さはないけれど色彩の演出が素晴らしい。

知り合いにカスピ海を見下ろせるバルコニーのあるアパルトマンを持っている人がいるのでいつか行きたいと思っていたのだけれど、この映画の灰色の湿った空気の立ち込めたカスピ海を見ていると、行きたくなくなる。

カスピ海の浜を映す監視カメラを通した多くの映像は、その無機質の中に、「見られることを厭わない」覚悟の表明ともなる。

景色、街の色、服の色に至るまで無彩色に近く、ぼかしもかけられていて、その中でヒロインが買ってしまった真っ赤なソファと、9歳以下なのでまだ髪を隠す必要のない少女のピンクの服と赤毛、そして、ヒロインも、元夫も息子も流す真っ赤な血。

赤は情動の噴出のようだ。

イランでは離婚すると親権は男親に渡るが、男親が薬物中毒ということで、再婚しないことを条件に息子を引き取ることに成功した女性の葛藤の物語。

彼女はカスピ海の畔でホテルを経営するやもめ男と相愛になる。

彼の幼い娘の世話をするためにも結婚したいが息子を手離すわけにはいかない。

で、「期限付き結婚」を選択する。「期限付き」なのでパスポートなど公の書類には跡が残らない。

シーア派にしかないこの期限付き結婚というのは、要するに、イマムの司式による結婚という枠以外のすべての性的交渉を禁止するもので、昔は、いわゆる売春宿にもイマムがいて、性的交渉をする前にいちいち短時間の期限付き結婚を認めていたこともある、と解説者が言っていた。

それは妊娠した場合に正式な父親を特定できるからだともいうけれど、要するに、一夫多妻によって金がかかることを避けるためでもあるそうだ。

イランのほとんどの人は、保身のために厳しいシャリア法に表向き従ってはいるがもちろんそれを不満とする人や、同性愛者などもともとそれと合致できない人もいる。

だからイランで生きるということは嘘をついて生きることだ。

ジャーナリストのラミタ・ナヴァイさんの著作が紹介される。

この映画でも、ヒロインは信頼できるはずの新しい夫に嘘をつくのだけれど、嘘をつくことがそのままサバイバルであるとして育ったのだからしょうがない。

出演は『別離』にも出ていたSareh Bayatだが、彼女も、監督も、共にホメイニ革命の1979年生まれだということが象徴的だ。

イスラム革命の後で生まれた女性たちが30代後半になってようやく偽善や嘘から立ち上がって女性の自立を唱えているというのではない。

そもそも1979年のイスラム革命を担った大きな力が自由を求める女性たちだったのだ。

後から思うと信じられないけれど、亡命中のホメイニはフランスでアメリカと癒着したイランの王制を批判してフランスのインテリ左翼に共感されていた。

フランス革命の刷り込みのあるフランス人には「王制打倒の革命」へのシンパシーがあったのだ。アンチ・アメリカの伝統もあった。

ホメイニは「王制打倒の共和国」を標榜し、実際、一応イスラム「共和国」と称した。その上、無神論をイデオロギーとする共産党と手を組むことにもやぶさかではなかった。

だから、イランの女性たちも、「革命」によって女性の完全な自由、男女平等の日が来ると思っていたのだ。

ところが2月の革命の後、すぐに、イスラム・スカーフ着用が語られ、女性がスカーフなしで歩いていると、戒告された。

そんなはずではなかった。
イスラム・スカーフが着用義務が憲法に書き込まれるようになってはもう遅い。

女性たちがすぐに声をあげ、ソーシャル・ネットワークのない時代にテレビで呼びかけただけで、3/8に1万5千人の女性がテヘランでデモをした。

世界のどこでも男性によって書かれる法で女性のあり方が規制されるところがある限りは、女性はもちろん、あらゆるマイノリティへの差別構造は崩せない、と考えた多くの人が世界中で賛同した。

その日のデモは女性主導のデモとして今でも世界最大規模のものとなった。
リヨンの女性がそれを撮影したのを今も見ることができる。

その大騒ぎに驚いたホメイニ師は数日後にスカーフ着用令をひっこめた。

それなりの犠牲は払ったものの女性が勝利したのだ。
スカーフ着用が完全に義務化されるには数年を要したそうだ。

イランの法律はその後、 「女性の社会進出」や学問の権利について、一応の「平等」を保証することになった。
その結果、大学や専門職に女性の割合が圧倒するようになったのでクォータ制を設けて男性の数を保つ必要ができたほどだ。

そうしないと司法試験も外交官試験も女性ばかりが合格する。

そのような一見「女性進出」のフィールドを与えられることで、女性たちはイスラム・スカーフの着用を譲歩せずにいられなくなったのだろう。

いや、スカーフの着用が彼女らの社会進出のモティヴェーションになったのかもしれない。

私は20世紀の終わりごろ、朝日カルチャーセンターでの講義に出席していた女性から、イランでは男女は分けられてはいるけれど、女性はあらゆる職階を昇り詰めることができて、日本よりむしろ女性が優遇されている、というような話を聞いたことがある。

しかし、弁護士にはなれても判事にはなれないように、実際は閉ざされている道もあるし、あれほど多くの女性が通りに出て叫んだにもかかわらず結局イスラムスカーフが「義務付けられ」てしまった状況が続く限り、深い所に女性のルサンチマンは残っているだろう。

しかし女性がいろいろな職業に就くようになって、想定外の面白いことも起こった。

例えば、バスでは男性が前から乗り前に座り、女性は後ろからと分けられていたのだが、1997年に女性運転士のバスが登場した。

女性と男性を分けるというのが法律だから、この場合は女性が前に乗らなくてはならない。

しかし前に乗ることに男性優先の含意を見ていたために後ろに乗ることを拒否した男が出てきたり、男女別を守るために女たちが前に乗るようになったりと、原則が崩れてきたのである。

2010年にははじめて女性が在マレーシアの大使に任命されたそうだ。シャーの時代にもなかったことだ。

中東情勢も含めてこれからのイランの情勢にも、イラン女性の目を通して注目していきたい。
by mariastella | 2016-03-10 22:44 | フェミニズム
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/

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