L'art de croire             竹下節子ブログ

復活祭レポートの続き。

復活徹夜祭に行ってきた。日本語のこの言葉ってなんだかすごい。

フランス語だと「徹夜で仕事した」という時の「徹夜」とは違う言葉なので「イヴ」なんかと近い。

冬至に重なり日照時間が減るのが終わって太陽が「再生」するクリスマスも「光」と関係が深いけれど、復活祭の方は春分と連動してほんとうに春の訪れの「光」だ。

イエス・キリストが磔刑死して空が真っ暗になり、その後中一日、残された人々は悲しみや裏切りや罪悪感の闇に過ごし、その次の日の復活ということで、「消えていた火が戻って来る」という火祭りのヴァリエーションでもある。

だから、「夜」の演出が必要となる。

ベースは、教会の前で松明などの火が灯されて、そこから、大蝋燭に、そして信者の持つ蝋燭に次々と火がともされて並んで教会に入っていく、とか、信者は暗い教会に座って待っていて、灯りと共に入場する司祭団を迎えるとか、になる。

聖書の朗読や復活の歌などが歌われた後で手持ちの蝋燭の火を消し、聖堂の電気がつけられる。

日本の教会では消防法の関係などで蝋燭を捧げることができないというのを聞いたことがあるけれど今はどうなのだろう。フランスの教会での蝋燭の扱いは、日本のお寺でのお線香の扱いと同じくらい普通だ。

暗いところで揺らめく手元の炎を見ていると、プロメテウスの神話から、理科の実験、数々の比喩などいろいろなことが思い浮かんで飽きない。

今年の日本でのお正月に見た大晦日の夜の神社のかがり火も思い出す。

ろうそくを手にして行列というのは、2011年のパゴダで天竺菩提樹のセレモニーに出たとき以来かもしれない。

あの時も、中で火事にならないかと心配したっけ。

日本のR大学の学生さんたちに同行したルルドでの蝋燭行列はそれよりも前だ。

復活徹夜祭というのは「成人洗礼」を同時にやることが多い。

昨日参加したのはごく普通のパリ郊外の教会なのだけれど8人の成人洗礼があったので軽く驚いた。

昔うちのあったフランドルの村では幼児洗礼がデフォルトだったから、「成人洗礼」と復活祭がセットなどと知っている人もいなかったぐらいだ。

私は2度ゴッドマザーになったことがある。
パリのカトリック系私立学校の中学生の女の子の洗礼は、初聖体やらとセットになった学校行事だった。

もう一人の日本人女性の知り合いは、パリ外国宣教会の復活徹夜祭での受洗だった。
その時は聖餐でワインをいただいたのが印象的だったけれど、署名以外にこれといって何かをしなければならないということはなかった。

いわゆる幼児洗礼というものには数えきれないくらい出席したけれど復活祭とは関係がなく、基本昼間で、メインはその後のパーティだったりする。

で、これまで会ったこともない4人ずつの男女が受洗者だったが、ユニークなのは入り口から祭壇までの通路を挟んで会衆席が向かい合わせに並んでいることだ。

主の平和タイムで皆が握手しあう時にも移動しやすくて和気藹々という感じになっている。

この教会には何度もコンサートに来ているし演奏したこともあるけれどこういう椅子の配置を見るのは初めてだ。

その真ん中の通路に大蝋燭、花飾り、洗礼の水盤が並んでいる。だからどこからでもよく見える。ひとりひとり呼ばれたら紫の肩掛けを外して進む。

父と子と聖霊の名で水を三度かけてもらう間に脇から代父または代母、または両脇を代父代母に支えてもらっている。何か、受洗者が逃げないように押えているようにも見えなくもない。
ふーんという感じで見ていた。

最後の一人の青年は、黒いスーツに蝶ネクタイの正装で、見るからに緊張していて、代母にそれこそ支えてもらっている。で、水をかけてもらいアーメンといって顔をあげた時、青年と代母の顔がぱあーっと輝いて、二人は聖水盤の前で抱き合ってキスした。

これには正直、感動して幸せな気持ちになった。

また、別の受洗者でクリストフとエリーズという2人がいて、この2人はすでに夫婦であるらしく、洗礼式の後で並び、司祭から結婚の(秘跡ではないが)祝福を受けて、キスしあった。

40代くらいのカップルだ。

誰ももうめったに結婚しないし、結婚しても二組に一組が分かれるようなこの国で、カップルの結びつきを神に捧げようと決心して2人で歩いてきた(この受洗までに2年かかったという)ことを思うと、それも素晴らしいと思った。

復活祭の醍醐味ってこういうところなのかもしれない。

朝のラジオでポントワーズのラランヌ大司教が、復活祭に二人の受刑者が受洗することを告げ、その一人が、受洗のプロセスによってはじめて「信じることの自由」を知った、と言っていたと話していたのも思い出す。

今の時代には「信じない自由」よりも「信じる自由」の行使の方が決意を必要とする。

それから、彼らはそれぞれ白い肩掛けをもらった。チベットの「カタ」みたいだ。

それから蝋燭に火をともし、先ほど火を消した蝋燭を手に持っている会衆を回ってまた火を次々とつけていく。「火」って、こうやって分かち合えるのが目に見えて効果的だ。

ここで歌われる洗礼の歌は陽気で、時々パパパンパンと手拍子も入る。

すでに洗礼を受けた人も、もう一度洗礼の恵みを新たにするというか、信仰をあらたにするようにということで、柘植の洗礼の水盤に残った聖水に、司祭が柘植の枝を浸して、それを振り回して会衆席の人の間を回り、しずくを振りかけていく。
(一瞬、メガネを外そうかと思ったが、枝の主日のように水が目に入ることもあるからメガネをかけたままにした。目をつぶるという選択肢は思い浮かばなかった。ともかく最近作ったこのメガネのおかげで隅々までくっきり見える復活祭ウォッチングとなった。)

「説教」の内容は神のfidélitéについてだった。

普通フランス語のフィデリテというと忠実という意味で、「オリジナルを忠実に再現する」のように使われる。
でも神のフィデリテはその反対で、神は同じものを二度と作らない、常にクリエートする、という。

つまり一度作ったものはどんなものでも「完成形」であり、それを裁いたり反省したり打ち捨てたりもしなければ、よかったからといってコピーをつくることもない。

被造物の一回性、十全性ということについて考えさせられる言葉だった。

(続く)
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by mariastella | 2016-03-28 02:17 | 宗教
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