L'art de croire             竹下節子ブログ

復活祭レポートの続き(その5) ゆるしの秘跡(追記有)

よくよくみたら、告解場所の近くにはたいてい、告解の仕方とか告解とは何かみたいなパンフレットが置いてある。そういうのには後で気づく私。

イエスの聖遺物のそばで司祭とじっくり話せる機会に飛びついたので、何も考えずに、ボンジュールといって座った。

「告解ですね」

と確認される。

見た目がアジア人だし迷い込んできたのかもしれないから当然の確認。

確かに、マジョリティの日本人として日本で暮らしていた頃の私にとって、「告解」って何それ ?というより、『懺悔の値打ちもない』という歌謡曲があったよなあ、と歌のタイトルだけが印象的なくらいだ。

「罪の後悔」とか改悛とかの意識も全く感じないお気楽な学生であり、「私は罪深い女」なんて、本当に歌謡曲の世界だったのだ。

犯した罪を真剣に後悔して誘惑に負けずに正しく生きようと決意した人が神のゆるしを求めてゆるされ、償いをする、という意味のキリスト教的な「正しい懺悔」のあるべき姿など、アルジャントゥーユのカテドラルの告解司祭を前にしてさえ、頭をよぎらなかった。

「ええ」

「何を告解しますか」

「あ、実は先週の木曜にもう告解して免償もしてもらったんですよ」

「でも、その後でまた罪を犯したということは考えられますよね」

「それは細かく言われればいろいろあるでしょうが、特にこれといった罪悪感は感じられないんです。だめですかね。」

という感じで話が始まり、私はいろいろ質問した。

復活祭の週末は告解の人がカテドラルの外まで列を作ってすごく大変だったそうだ。

70代くらいに見える司祭はカテドラルつきの人ではなく、元ポワティエにいて司教との折り合いが悪くて教区を移ったこと、この聖遺物公開のために告解司祭としてつめていることも話してくれた。

私の質問は多岐にわたる。

「こういう特別な場所と機会に告解を受け持つって、何か普段と違う感じはしますか」

「ゆるすのって、自分ではなく聖霊の名のもとにゆるすんですよね。今ここで聖霊の臨在みたいなのをほんとに感じますか」

これについての答えは、

「今は分からないけれど、聖体拝領の前にパンとワインを聖別する時はほんとうに聖霊が降りているのをいつも感じています(こういうだけで感動に満ちて顔が輝いたのでそれにはこちらも感動した)。今こういうところで、ゆるすと言っても、聖霊がはたらいているかどうか私には分からない。改悛や償いをひたすら聖霊に祈っているのです。」

「司祭の小児性愛の事件で、教皇が『絶対に赦されないことだ』と言っていますよね。でも神の愛が無限ですべてゆるされるのと矛盾しているのではないですか」

「それは神のゆるしとは別に、改悛と償いなしにはゆるされない罪だということです」

「でもいくら改悛しても、犠牲者の受けたトラウマは消えませんよね、どうしたら償えたと言えるんですか」

「それも聖霊の働きを祈るしかないんです。ほんとうに改悛して祈れば、犠牲者が癒されることも不可能ではないと信じます」

「ここに、未成年を性的虐待したという人が来たらどうしますか、免償を与えますか」

「過去にそういう罪を犯したけれどそれを悔いている、もうそれをしない、と本人が思った上で来ているなら与えます。でも、罪悪感の弱さや心の病気のせいでそれをやめられないという人には免償は与えません」

「じゃあ、免償をもらえないままで告解席から出ていく人もいるわけですね。1992年以来15歳未満への性的虐待に関する告白に関しては告解の秘密が適用されないとありますが、警察に告発することは考えられます ?」

「自首しなさい、と言います。もし、自首しないとしたら、告解の席でなくその人と別の場所で接触して話し合い説得を続けます。告解の席でなければ、知った情報を開示することもできますから」

なるほど。

などといろいろと質問したし、意見を交わし合った。

第二ヴァティカン公会議の前と後での「告解」の変化についてや、「いつくしみの聖年」において教皇が司祭に免償についてより大きな権限を与えたことについての対応なども。

話がはずんでふと振り向くと、2,3人の人が待っていたので「じゃあ、そろそろ」と私がいうことになった。

でも、こういうところでたっぷり待たされても、

「あの人、よほど深刻な罪があるんだろうな」

と同情してもらえるかもしれないし、占いや鑑定や療法士や医師の診療と違って、無料だし、こんなところで「1人何分」などという理屈を持ち出す人はいない。

「あいつ、長いぞ、イライラ」

などという気持ちを抱いたとしたらそれだけでほぼ「罪の加算」みたいなものだから、そういう「世間のマナーコード」から別世界にあるわけで、そういう意味でもストレスフリーの貴重な空間と時間だ。

ありがとう、とても楽しかった、と言われ、席を立って、ふと気づくと、「免償」されていない。

免償を与えないのは改心していない確信犯の場合だと言っていなかったっけ・・・008.gif

次に告解席についた人はちゃんと小さなカードを渡されて司祭といっしょに改悛の祈りを唱えて、その後でさらにアヴェマリアの祈りかなんかを一人で聖遺物に向かって唱えるという「償い」をしていた。

正しい姿。

でも、今回のこの聖遺物公開は全免償の対象になるのだからまあいいか。032.gif

「いつくしみの扉」もくぐったし。

写真も撮ったけれど、聖遺物、ここにもっとよく見えるリサーチのリンクを貼り付けておきます

(追記:  この記事とその前の告解の記事に関して、こんなことを書いてもいいのかと心配してくれた人がいたのでことわっておきますが、書く前にちゃんと教会法をチェックして、告解の場所での話に関する秘匿義務は司祭の側にしかないことを確認してあります。また司祭にも私が記事を書くつもりで話していることを隠してはいませんのでご安心を。パリの教会の司祭の場合は彼の所属や経歴も調べた上でリスペクトしています。この記事を読むことで告解への敷居が低くなって、カトリックじゃない人でも司祭に話を聴いてもらって免償じゃなくて祝福だけ受ける、ということに共感したという人が実際に出てきたので、後悔していません。ただし日本とフランスではメンタリティが違うかもしれませんし、それぞれのコミュニティの傾向もちがうでしょう。なんにしても正直と誠実が一番必要だと思います)
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by mariastella | 2016-04-01 01:14 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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