L'art de croire             竹下節子ブログ

聖霊降臨の不思議

今日は「聖霊降臨祭」。

事実上、キリスト教が誕生した日だと言っていい。

その様子を描く新約聖書の『使徒言行録』というのも、決定的な文献なのだが、ルカが書いたと言われるこの言行録はまさに聖霊にインスパイアされたような興味深いテキストだ。

聖霊降臨についての記述自体が不思議だ。言行録の第二章に、

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」

とあるのだけれど、この「激しい風が吹いて来るような音」とか「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」というところの「・・・ような」というのが不思議な表現だ。

旧約聖書なら、エジプトから脱出した民が飢えていると、「朝には天からパンが降ってくる」など、超自然のことがあっさりと書かれている。新約聖書でも、イエスに関する奇跡の描写は直截で、嵐を沈めたとか死者を生き返らせたとか水の上を歩くとか当たり前のように書かれているし、イエスをめぐる弟子たちの体験も、「光り輝く雲が彼らをおおった」と明確に書かれている。

それなのに、聖霊降臨は、激しい風が吹いてきた、とか、炎の舌が現れた、というのではなく、「…のような」という形容となっている。

起こったことについて、今一つ、事実関係のとらえ方に確信がなく、ある距離感というか、躊躇というか、謙遜というかが感じられる。

雷鳴がとどろき、光の矢が降り注いだ、という具合にドラマティックに上から目線で断定する代わりに、聖霊が降りたことへの自分たちの驚きと自問がそのまま語られているのだ。

与えられたのは無謬の答えなどではなかった。

「・・・ような」が垣間見せる心理的な空隙は本当にわずかなものだ。

神の世界が人間の世界に侵入してくる時にまつわる不可知なものである。

けれども、その、一瞬の隙に、「人間の自由」が参入する「場」が現れる。

集まっていた使徒たちは、自由な言葉を獲得して世界中へ旅立つことになった。

聖霊降臨祭は一つの自由の祭典だ。

私たちには「霊感を受ける」自由と責任がきっとある。
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by mariastella | 2016-05-15 02:21 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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