L'art de croire             竹下節子ブログ

『地下室のメロディー』のギャバンとドロン

映画を観ていて、俳優の年齢と自分の年齢で見方が変わるということを前の記事で書いたが、先日TVで『地下室のメロディ』(アンリ・ヴェルヌィユ)を本当に久しぶりに見て、また感慨深いものを覚えた。

1963年公開のこの映画はジャン・ギャバンとアラン・ドロンが最初に共演した犯罪映画だ。

若い頃のドロンって犯罪映画がよく似合う。

で、この映画とか『太陽がいっぱい』とかは、私が中学生時代くらいに同時代的に観たものだ。

その時のジャン・ギャバンはすでに「年より」のカテゴリーの人間として私にインプットされていた。

今思うと、1962年の撮影時のギャバンは、58歳でしかなく、今の私より若いのだ。

でも老け顔だし、こういうキャラなのだからたとえその前の映画を観ても「年配者カテゴリー」に入れていたと思う。その上、ギャバンは私がフランスに住むようになってすぐに亡くなったので、「同時代性」はない。

それに対して、ドロンは今年81歳になるが、別に知り合いではないけれど、この40年を同じ国で同じ言葉を話して共に生きてきた同時代人という感じがある。

だから今のドロンを見ても、「81歳のおじいさん」というカテゴリーには入らず、『太陽がいっぱい』や『地下室のメロディー』の美男チンピラが年齢を重ねてきた姿、に見えるのだ。

今はビデオでも何でもあるけれど、昔は一般人の子供の頃とか若い頃の姿などは古い写真や無声の8mmフィルムでしか見ることができなかった。
今はもういない自分の家族や、もうお互いに年を重ねた友人たちの声やしぐさなど若い頃の姿は「思い出の中」にあるだけだ。

それなのに知り合いでもない映画俳優の姿は、実際にあったことがなくても、今でも昔の映画の中で話しぶりやしぐさを追認できる。それと共に、懐かしさや時の経過による変化などをたっぷり味わえる。

それにしても、若い頃のドロンの美貌というのは今見ても独特のものがある。

この『地下室のメロディ』の役にしても、はじめはジャン=ルイ・トランティニャンが予定されていたのに、ドロンが無給でいいから、と自薦したのだそうだ。そのかわりに中国、ロシア、日本への配給権をもらい、すぐに日本語字幕を作成して日本にプロモーションに行って大ヒットしたのだそうだ。

なんだかすごいマーケティングのセンスのあるエージェントがついていたのだろうか。

もともとスポンサーがアメリカ資本のMGMで、監督のヴェルヌィユとシナリオのモシェル・オディアールと主役ギャバンの三者による作品を三本制作という契約の中のひとつで、アメリカでは無名のドロンには食指が動かなかったのだという。

このころの映画を最近になって見るといつも思うのは、登場人物がいつでもどこでもタバコを吸っていることだ。それを別にしたら、昔日本で字幕で観たフランス映画を今フランス語で細かいニュアンスまで全部理解できるというのはいつもながら新鮮だ。

台詞があまりにもよくできているので、これを字幕で観ていた時っていったいどういう風にインプットされていたのだろうと不思議だ。

その中で非言語的なテーマ音楽だけが強烈にノスタルジーをそそる。

内容はと言えば、最初のシーンで1960年代に、パリ近郊に多くの集合住宅の建築ラッシュがあったことを思い出したり、今ちょうどカンヌ映画祭開催中なので、犯罪の舞台がカンヌのカジノであることなどに親近感を覚えたりする。

アラン・ドロンの映画デビューが、職を探していたドロンに「そんなにハンサムなのだからカンヌ映画祭の時に浜辺を歩いていればきっと誰かから声をかけられるよ」と言った人がいて実際そのとおりになったというエピソードも想起される。

彼は別に私の好みではないけれど、さぞやオーラのある美貌だったのだろうと、この映画でも想像できる。

私が子供の時にピアノのレッスンに通っていた近くの商店街に「貸本屋」さんがあって、『映画の友』という雑誌をよく借りていた。

兄から、「世界一の美男がアラン・ドロン、世界一の美女がエリザベス・テイラーとされている」と聞いて、なるほどいつもこの2人の写真が載っていたのを眺めていたことを思い出す。

その2人のうち、エリザベス・テイラーは私にとって最後までヴァーチャルで、スクリーンの上の人、雑誌のグラビアの「外国人」だったけれど、何十年も同じ国に住むアラン・ドロンは、いろいろなインタビュー記事やラジオやテレビで肉声を聞いているうちに「昔から知っている人」みたいな存在になるとは本当に不思議だ。

で、映画としては、よく言われるように、ドロンとギャバンの台詞が一切ない最後の数分のためにあるようなもので確かによくできている。

2時間も犯罪者に付き合わされると彼らの計画が成功するのを期待する気持ちになるので、どうして別のカバンを用意しておかなかったのかなどとつっこみたくなる。

最後のシーンの無情感、不条理みたいなもののインパクトはすごいし、あそこでどんなにパニックになったとしても、カバンをプールに投げ込むというのだけはあり得ないだろう、という最大のつっ込みはなぜか浮かんでこない。

そのことが、演出の力と若きドロンの名演とを最も雄弁に語る。
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by mariastella | 2016-05-18 02:09 | 映画
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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