L'art de croire             竹下節子ブログ

聖職者と平信徒、女性「助祭」問題について

どこかの国の大統領候補などとはもちろん次元が違うけれど、フランシスコ教皇も時々、本音なのかジョークなのか分からないようなことを非公式に近い場所でもらす。

教勅や説教や外交辞令の中などでなくても、片言隻句が注目を集めるのは承知しているはずだから、別に口がすべったというのではなく、周到に用意され、その反応を観察、分析しているのだろう。

最近注意をひかれる言葉がいくつかあった。

5月9日、フランスのカトリック日刊新聞のインタビューを受けた中で、

教会の危機のひとつは聖職者主義です。司祭は信徒が聖職者になることを願い、信徒も聖職者になろうと願います。ブエノス・アイレスでは多くの良き司祭が、能力ある信徒を見るとすぐに「彼を助祭にしよう」というのを聞きました。いや、そんな人は信徒のままにしておかねばなりません。ラテン・アメリカで聖職者主義は特に重んじられています。けれど、ラテン・アメリカで民衆が信心行にあれほど熱心なのは、まさに、それが聖職につかない信徒にとっての唯一のイニシアティヴだからです。そのことを司祭たちは気づいていません。

と言っているのだ。

「助祭」とは、司祭になる準備期間の場合と、終身助祭のふたつがある。
フランスの地方では司祭が少なくなっているので、終身助祭を必要とされて任命される教区が少なくない。

助祭は聖餐式はできない。パンとワインがミサの中で実際にキリストの体と血に変わるという「聖変化」の儀式ができるのは司祭だけだ。でも、その他の結婚式、葬儀、説教、洗礼などたいていのことはできる。

ところが、その3日後の5月12日、世界中の女子修道会900人のリーダーが集まった前で、女性助祭の問題について質問を受けた教皇は、「女性助祭の可能性について検討する委員会を設けることに賛成だ」といって驚かせた。「教会がこの問題について明快にするのは良いことで、委員会は有用だと思う」と。

カトリックにおいて女性が司祭になれないのは、「聖書」、「伝統」、事実上の「教皇の無謬性(ヨハネ=パウロ二世)」の三重の壁によって確定している。

でも女性の「助祭」は存在していたことがあって、古くはパウロが『ローマの信徒への手紙16,1-2』に

「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。
どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。」

と書いていることがいつも引き合いに出される。

教皇は、ラテン・アメリカでの聖職者主義を批判しているが、同じインタビューで、韓国のカトリックのことに触れて、宣教師が中国に戻った後で二世紀に渡って韓国が信徒によって福音化され続けたことを挙げ、

「福音宣教するのに司祭が絶対必要だとは限りません。洗礼が福音宣教の力を与えるのです。洗礼によって授けられた聖霊が、キリスト教のメッセージを勇敢に忍耐強く伝えることを促します。」

とも言っている。

両方合わせて聞くと、なかなか含蓄があるのでは。
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by mariastella | 2016-05-22 04:16 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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