L'art de croire             竹下節子ブログ

ファティマ第三の秘密

退位して3年になるベネディクト16世(以下B16)は、なかなかそっとしてもらえない。

聖週間には(蝋燭の火が消えるように)ゆっくりと弱りつつあるなどと言われた(特別秘書のゲオルグ・ゲンシュヴァインのインタビューの言葉)で心配させられたし、その後、帰天の偽情報もTwitterで出回った。

89歳になったばかりで、後ひと月で叙階65周年になるB16は、この土曜、5/21に、

「ファティマの三つの秘密はすべて発表された、四つ目はない」という声明をわざわざ出した。

ファティマの秘密というのは1917月ポルトガルのファティマで羊飼いの子供たちに現われた「聖母」が語ったお告げのうち、教皇にのみ伝えられたというもので、1960年までは公にしてはならないと聖母に口止めされていたと伝えられる。

結局、2000年の6月26日に、後のB16となる教理省長官ラツィンガーが、ヨハネ=パウロ二世(JP2)の指示によって「発表」した。

確か1981年のJP2の暗殺未遂の「予言」だったというようなことに落ち着いた。

ところが、2015年の聖霊降臨祭に、ある英語のサイトに、別の秘密があったという記事が出た。

ブラジルで神学を教えていたIngo Dollingerというドイツ人神父が2000年に、第三の秘密公表の数日後、ラツィンガーと会った時、第三の秘密には「発表した以上のものがある」こと、その隠蔽された部分というのは「間違った公会議や間違ったミサ」についてのものだったと聞かされたと述べたというものだ。

その後ヴァティカンは直ちにこのことを否定している。

それなのに、それから1年も経った今、B16が自ら、そのことを「純粋な作り話、まったくの誤り」としてイタリア語、英語、スペイン語で発表しなくてはならなかった。

実はそのサイトというのは、第二ヴァティカン公会議を認めずに離反、破門されたルフェーヴル派のアメリカ支部の« One Peter Five »というものだ。

B16は、Ingo Dollingerとファティマの話をしたことはない、第三の秘密については2000年に発表したものが完全ヴァージョンだと断定している。

ルフェーヴル派が、聖母の言葉を借りて、第二公会議やラテン語でない新しいかたちのミサなどの正当性を批判しようとしている意図は分かりやすいけれど、今になってこういうことを言いだしたのは、Ingo Dollinger神父もB16ももう何も反論しないだろうと高をくくっていたのだろうか。

DollingeはB16より3歳ほど若いようだが、彼の立ち位置はよく分からない。
道徳神学を教えていたそうだ。
同年配のドイツ人同士ということで、「打ち明け話」をするということにも信憑性があると思われたのだろうか。

それにしても、公の場からは完全にリタイアし、「ゆっくり消えつつある」などとさえ言われるB16がわざわざこんなコメントを出さなければいけないというのは気の毒だ。

特定のドイツ人神父による情報、などという書かれ方をしたからやはり自分が生きているうちに自分の言葉で否定すべきだと判断したのだろうか。

私はB16のファンだ。

その理由はサイトの「B16について その2」 などで書いている。

最初に好きになったのは、別のところで書いたことがあるが、TVの、ドキュメンタリー番組で、彼がピアノの前に座りモーツアルトを弾き出した時に、無造作に、教皇の指輪を取り外してピアノの上に置いたのを見た時だ。
私も楽器を弾く時に腕時計や指輪をつけるのが好きではない。
教皇の指輪のように重そうなものは絶対に外すだろう。

それ以来(他の人が「悪人顔」などと評しても)、外見も可愛らしくしか見えず、ずっとファンである。
今年60歳になるゲンシュヴァイン(今もすてき)がずっとそばに仕えているのを知ってほっとする。

それにしても、「聖母出現」などの「奇跡」を認定してしまうカトリック教会、その「秘密」や「予言」は陰謀論者やらなんやらの手によって都合よく増幅されたり改変されたりしながら、ウェブ世界を席捲していく。

ウェブに垂れ流されるデマは別にしても、『ダヴィンチ・コード』のような今は懐かしい「トンでも本」もあった。

ユダヤ教、キリスト教を通して「古来秘められていた秘密」が「暴露」されて世界を震撼させるというようなテーマのミステリーは後を絶たない。

最近のもので私が唯一気に入っているのは、そして最新の考古学の成果を踏まえた情報の確かさと豊富さですばらしいのは『シャルトルの啓示』(クリストフ・フェレ)だ。

「秘密」の内容や解釈はフィクションなのだけれど、結末に「希望」があるのがいい。

ファティマのお告げに対するヴァティカンの態度にも表れているけれど、ネガティヴなばかりの予言、人を恐れさせ、震撼させるばかりの予言は「福音」の精神に反する。

たとえ、「聖母」が嘆き、悪魔の業を予告し、回心や改悛ばかり訴えているように見えても、その先には「希望」の光が射していないと本物ではない。

「本物」のお告げや予言は、その先にある光に向かって歩いて行く選択と自由を残しているもの、うながしているものでなくてはならない。

前例のないB16のリタイアも、そういう光を与えてくれたものだった、とあらためて、思う。
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by mariastella | 2016-05-23 03:21 | 宗教
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