L'art de croire             竹下節子ブログ

精神の健全さとは その2

(昨日の続きです)

2.両義性(多義性)に耐える能力

これは1にあった複数のアイデンティティにも関わるけれど、周囲からさまざまに期待されている「役割」や、求められているものが相反していたり両義的であったりすることを認めることだ。

「保護されている」という状態がそのまま「拘束されている」ことに通じたり、挫折や失敗が次のステップへのポジティヴな肥やしとなるという情況も含まれるだろう。

これも、キリスト教的世界観の根底にある

「100%神であり同時に100%人でもあるイエス・キリスト」だとか、

「奇跡を起こすことのできる全知全能の神なのに無抵抗で捕えられ鞭打たれて十字架につけられ嘲笑われて息絶えた」受難が「復活の栄光」のために必要だった、

などの両義性につながる。

「AならBになるはず」とか「AならBでなくてはならない」という強迫から自由になって、

今ここではすぐに分からないけれど、不都合かもしれないけれど、矛盾しているかもしれないけれど、解決しないでこのままやっていこうとする能力が必要だ。

これも、いまここで感じる不条理も、実は神のみ旨であり、長い目で見るとそれはいつか明らかになる、などの宗教的言説を通すと、耐えやすくなるかもしれない。「一義」しかない精神世界を生きる方がずっと危ういのだ。

キリスト教の両義性の例をもう一つ上げよう。

敵と味方に付いてイエスは二通りのことを言っている。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
(マタイによる福音書/ 12章 30節)

つまり、味方しないもの、積極的に協力しない者は中立ではなくて敵でありマイナスの存在だ。

ところが次の福音書では、

「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 」
(マルコによる福音書/ 09章 40節)

とある。賛同しないまでも、協力しなくても、積極的に逆らうことさえなければ「味方」だというのだ。

がんばって「福音宣教」をしない者はキリスト教の敵なのか、特に異を唱えなければエキュメニカルに対話できる味方なのか、どっちなのだろう。

で、次のルカ福音書はどう言っているかというと、両者ともちゃんと載せている。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
(ルカによる福音書/ 11章 23節)

イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」 (ルカによる福音書/ 09章 50節)

これをそのどちらかだけにこだわって、敵対する者を排除したり、都合よく妥協したりするのは本当の意味で福音的ではないことになる。

実際、教会の組織や典礼などについて、この二つの姿勢のどちらかだけを採用することで対立や分裂が起こることは珍しくないのだ。

両義性(多義性)に耐える能力があるかどうかが精神の健全さの指標だというのは興味深い。
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by mariastella | 2016-06-15 06:26 | 雑感
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