L'art de croire             竹下節子ブログ

精神の健全さとは その10

(前回からの続きです)

10.いい加減で手を打つ能力

これは複合能力で「意地にならない能力」、「いろいろな角度からものを見る能力」、特に「相手の立場に立つとものがどう見えるかという想像力」、さらに一般的に「相手の身になる能力」が関連しているそうだ。

「若干の欲求不満に耐える能力」も関わりがあるという。

これもこれまで挙がったいくつかの「能力」を別の角度からとらえたものだろう。

困難に面した時に「あたって砕けろ」、というのではなく、立ち止まる、回避する、先送りする、などの柔軟な対応がすでに提案されていたけれど、そのヴァリエーションだ。

視点を変え、相手の側に立ってはじめて見えてくるものがあるかどうかを検討しようという。

「相手の身になる」のは、それを意図する時はそんなに難しくないのだけれど、そんな発想自体が、意識しないと自然には湧いてこない。

共感能力が高い人でも、まず最初に「相手の立場になる」というシフト・ボタンをクリックしないと共感への道に至らないのだ。

ポピュリズムというのがある。
大衆迎合というやつで、誰にでも分かりやすい「悪者」をバッシングするのもその一つだろう。

その時には皆がいっせいに、例えば凶悪犯罪なら「無辜の被害者や被害者の家族の身」になって同情し、犯人の死刑を求める。

凶悪犯罪の後には死刑存続賛成の率が跳ね上がる。

「加害者や加害者の家族の身」になるという発想は普通には湧いてこない。

この点でもカトリック、というよりキリスト教は、陰影に富んだ「分かりにくい」もので、ポピュリズムとは遠いところにある。

なぜなら、イエス・キリストは、まさに興奮した群衆から「殺せ殺せ」と言われた形で死刑判決を受けたからだ。

彼に付き従っていた弟子たちでさえ、それに恐れをなして姿を隠し、一番弟子のペトロは「イエスなんて知らない」と三度も嘘をついた。

そのペトロの継承者が今のローマ教皇ということになっている。

ポピュリズムの怖さ、一面的にものを見て容易きにつく、多数派につくことの危険さが出発点にある。

「多数決」が正義を決めるのではないということの証明でもある。

すべての立場の人を視野に入れた聖霊にインスパイアされない多数決や民主主義は、救世主を血祭りにあげることだってできるのだ。

神の子がそのような目に合うだけでもすごいけれど、しかも、その時に調子に乗ってイエスの死刑に加担した民衆や処刑の執行者たちをイエスはあっさりと赦している(というか父なる神に赦しを請うている)のがまた驚きだ。

十字架上で

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」

と言ったのだ。

イエスを愛し敬いながら裏切るという二律背反に陥った弟子たちも、それを責められることなく、復活したイエスからもちろん赦されている。

キリスト教成立のもう一人の立役者の聖パウロなど、単に「殺せ殺せ」というとか「イエスなんて知らない」と嘘をつくどころか、イエスを救世主だと崇める人々を見つけ次第、男女問わず縛り上げ、命を奪おうという気満々の官吏だった。

その途中で劇的な回心体験があるわけなのだが、使徒たちですら最初はこうして軒並み、「イエスの身」や「キリスト者たちの身」になって考えることなしに道を誤ったというのはある意味で「人間だもの」とほっとさせられる。

そしてそれでも、最終的に彼らが赦され、信頼され、やり直せたというのにもほっとさせられる。

世間ではキリスト教は原罪思想があって厳しく、悔い改めないと地獄に堕ちるなどと脅かす宗教だという誤解もあるようだ。でも、根本にあるこの多くの矛盾やそれによって人を追い詰めることなく「いい加減で手を打つ」という鷹揚さが実は「精神の健全」に寄与している気がする。

「若干の欲求不満に耐える能力」というのもまた、

「自他の過ちを徹底的に追及して完全にクリーンにしてからリセットしたいという欲求」

を加減して、

「いい加減で不問に付す」

ことが大切である場合を想定しているのだろう。

肩の力が抜けてくる。
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by mariastella | 2016-06-23 01:25 | 雑感
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