L'art de croire             竹下節子ブログ

精神の健全さとは その11


(前回からの続きです)

11. しなければならないという気持ちに対抗できる能力

これも今までに挙げられた「能力」のいくつかを別の形で言っているようだ。

こうも繰り返して、「適当でいいよ、いい加減でいいよ、すぐでなくてもいいよ、完全でなくてもいいよ」と言われ続けると、私のようにはじめからいい加減なタイプは「わあ、私の精神って健全」って嬉しくなってしまう。

けれどもこの「基準」はもともと精神のバランスをくずしてしまって「普通の生活」に適応できなくなった人たちを治療する立場にあった中井先生が、どこまでを治癒として認めるかという試行錯誤の末にたどり着いたものだということを忘れてはいけない。
この「能力」も、なかなか「しなければならない」という気にならない受け身の人や怠惰な人には無縁なものだ。

「しなければならない」ということが強迫的なストレスになって心が折れてしまったり、他のことや他の人を顧みられなくなったり、その「しなくてはならないこと」の遂行が当初の意味や目的から離れたり逆方向に行っても気づかないような場合が危ない。

毎日何キロ分というエアバイクを漕ぐことを自分に課していた70代の女性が、足を痛めて漕ぐことができなくなった時にもノルマを果たすために執念で、寝ながら手でペダルを回していた例を聞いたことがある。その方はその少しあとに自ら命を絶った。

「痩せなければならない」と拒食症になったり、「仕事しなくてはならない」と過労死に至ったりという極端な例もあるだろう。

「しなければならない」こと自体を「ないことにする」のがいいというわけではない。

「しなければならない」という意識が、もっと大切なもの、本質的なものをおろそかにしたり侵害したりするようになっていないか、立ち止まって考えてみよう。

その内容を状況によって読み替え、優先順位を変更したり、やり方や取り組み方を変えてみたりすることも必要だろう。

ユダヤ人の社会で「律法遵守」が最重要になってしまっていた時代に生まれたイエスは、「しなければならないこと」がすべてに優先するやり方に異を唱えた。

安息日にも人を癒したし、「罪を犯した女」を裁かなかったし、差別されていた収税人やサマリア人とも親しくまじわった。

「義務を果たす」とか、「しなければならないことをする」のには意志の強さや努力を必要とするが、だからこそ、それを果たしている者に自己満足や自負、自尊を与える。

そのせいで、「しなければならないことをしない」あるいは「できない」者を軽んじたり断罪したりする誘惑が生まれる。

原理主義者が時として他者を裁く者になる。

状況に応じてしなければならないことをするのに最善を尽くすのはいいとして、それができなくても、他者も自分も裁いてはいけない。

こう考えると、そう簡単な話ではない。
[PR]
by mariastella | 2016-06-24 07:16 | 雑感
<< イギリスのEU離脱、ジャンヌ・... 精神の健全さとは その10 >>



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
カテゴリ
検索
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧