L'art de croire             竹下節子ブログ

クロード・ミレールの遺作『テレーズの罪(テレーズ・デスケルウ)』

この映画はボルドーから80km離れたロケ地で撮影され、クロード・ミレールは毎朝、撮影前にボルドーで放射線治療を受けていたという。

ボルドーの近くで土地持ちのふたつのブルジョワ家庭が互いの利益のために姻戚関係を結ぶ。
厳しい父のもとを去って仲のいい女友達アンヌの兄ベルナールとの結婚はテレーズにとっては「家族から解放される避難所」だった。

けれども、ベルナールは狩りが趣味で共通の話題もない男だった。

アンヌの方は、修道院のシスターから教育を受ける中で、「神秘的な情熱」を知り、パリから来た男ジャンと恋仲になるが、家族から付き合いを反対される。

アンヌと別れさせるためにジャンに会ったテレーズは彼女の知性や好奇心を理解したジャンとの会話によって、地方にいては想像もできなかった自由なパリの生活に憧れる。

その時すでにテレーズは妊娠していて、子供も生まれるが、不全感はくすぶったままで、心臓病の予防のために少量のヒ素を飲む夫の毒殺を企てる。

それによって彼女が何を求めていたのか、彼女自身も多分分かっていない。

ベルトランの体調はどんどん悪くなり、処方箋を書き換えて薬局に行き薬の量を増やしたことから彼女が疑われた。
しかし妻に毒殺されかけたというスキャンダルを表に出すことはできない。
ベルトランは寝室を分けて娘にも合わせないが妻に弁護士をつけ、日曜にはそろって教会に行き続ける。

自分も偽証してまで妻を不起訴にするが、その後でうちを出て、テレーズを屋敷の一部屋に幽閉する。
テレーズは離婚されるという自由も得られないし、うちから出されることすらないのだ。
実家にも戻れない。父は夫に服従するようにと言い渡す。

召使に見張られながらテレーズは壊れていき、アンヌがしかるべき婚約者を連れて来た時には兄嫁として出てくるが、その変貌は衝撃的で、ベルトランはアンヌの結婚式の後でテレーズをパリで一人暮らしさせる。

テレーズには持参金(土地)があるのでベルトランは彼女を養い続け、大家族だから結婚式や葬儀の度に教会で娘に会えるだろうと言う。
そこまで家族が崩壊しても、教会の行事に出席することが「秩序」なのだ。

それでもパリで憧れのカフェのテラスに座るテレーズは「再生」し、はじめてベルトランに謝罪する。

いったいどうなるのか、と飽きないで見ることのできる映画なのだが、何事もはっきりと表現されないので理解できないまま終わる、という感想を持つ人がいるかもしれない。

原作はモーリアックの有名な小説『テレーズ・デスケル―』だ。

テレーズにはモデルがいる。1905年に夫の毒殺未遂で逮捕され、無罪になったが処方箋偽造で有罪になったブランシュ・カナビィという女性だ。

モーリアックは家族という檻に閉じ込められた女性が、野生動物が檻の中をぐるぐる回るようにしてやつれていく孤独を書きたかったと言う。

原作のテレーズのモノローグから三つのテーマが浮かび上がる。

その一つは生物学的女性の条件の悲惨さだ。
ブルジョワ家庭では女性が「子孫を創る」装置でしかなく、しかも産褥死が多かった。
テレーズの母も産褥死し、父は女性蔑視し、テレーズには性の禁忌が刷り込まれていた。

義妹となるアンヌの方は宗教的な環境でシスターたちに囲まれて「イエスへの愛」などを知るのに、テレーズの父は地方の左翼の無神論者でテレーズも不可知論者であり、愛の表現を知らないのは皮肉だ。
しかし、無神論の実家と敬虔なカトリックの婚家は、利害が一致すれば問題なく姻戚関係を結ぶ。
その偽善にテレーズは傷ついている。

もうひとつは地方社会の閉鎖性への反抗だ。

カフェのテラスに座れて群集の中で匿名の一人になれるパリと違って、家の中で所有され、支配され続ける生活はテレーズを蝕む。
パリのことを語るジャンは、ボルドーからパリに出てきてその自由さを知った若きモーリアックの姿だ。

婚家が敬虔なカトリックと言っても、それは信仰ではなく、女子供が既成秩序に服することを担保するものであり、地方の名士としての「外面」であった。
だからこそ、宗教上の罪である離婚もできないし、名誉のためにはスキャンダルをもみ消す。

個人の幸福は犠牲にする。その意味で、毒殺を試みたテレーズも毒殺されかけた夫も、犠牲者である。

テレーズの罪も「神を信じていない」からだと責められる。
神、というより罪に対する神罰を恐れていたらこんなことにはならなかった。
恐れは知恵の始まりなのだ、と彼らは言う。

婚家にとって、愛の神や赦しの神はいない。
だからこそ、世間的には偽証してまで不起訴を勝ち取っても、テレーズを赦すわけではなく、残酷に徹底的に復讐、報復する。彼女の人格、尊厳を奪ったのだ。

三つ目のテーマが、最後にテレーズが得たかに見える「女性の解放」である。

しかし、カトリック作家であるモーリアックの最大のテーマは、テレーズのように、怪物でもない「普通の女性」がなぜ夫の毒殺という恐ろしい行為を実行に移したのかということだろう。

古代ローマで皇帝クラディウスを暗殺た連続毒殺魔ロクスタ以来、女性が計画的に人を殺すとはどういうことなのか。
激情に駆られての殺傷ではない。
「意志」があった。

人を殺すような選択をするのは「ひとでなし」、「怪物」なのだろうか。

『テレーズ・デスケルー』の第一稿のタイトルは『良心-神の直感』というものだった

キリスト教の言葉としての「良心」は、人が直感的に抱いている神的な意識であるという意味だ。

ではどうして人は良心に背く、神に背くような行為をするのだろう。

それは神が自由意志を人間に与えたからだ。自由意志という病を人は抱えている。

だとしたら、それを行使したからといって、それは被造物である人間の責任ではない。

『テレーズ・デスケルー』の冒頭にはボードレールの『パリの憂鬱』の「マドモワゼル・ビストリ(外科刀)」の一節が引かれている。

主よ、憐れみたまえ、狂った男たちや女たちを憐れみたまえ!
おお、造物主よ! 彼らがなぜ存在するのか、どのように造られどのようにすれば造られないですんだのかを知っている御方の眼に、怪物など存在できるでしょうか。

というものだ。

ボードレールのその一節の前には

「造物主よ、支配者よ、「掟」と「自由」を造りたもうた方よ、なすがままにさせたもうた主よ。」

という呼びかけがある。

「掟」と「自由」の両方を作ってなすがままにさせたのは造物主なのだ。

「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。(ローマ人への手紙8-20)」とある通りだ。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」。

けれども希望があるのは、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。(同21)」

すなわちキリスト教の信仰においては、実は、「自由」とは自分の限界を超えて、神との関係に参入する自由なのである。

信仰のなかったテレーズにはその「自由」がなかった。

だから「希望」もなかった。

テレーズはランド地方の荒れ野に住み、心も荒れ野をさまよっていた。

旧約聖書の詩編63は、ダビデが荒れ野にいた時の賛歌である。

神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。

テレーズは乾いた時に神を求めるすべを知らなかった。

それでも、神は、テレーズに、憐れみと慈しみの眼を向けている。
人間には神を求めない自由があるが、神には選択肢はない。

一方、原作と映画ではいろいろなことのニュアンスが違っている。

テレーズの夫のベルトランもまた妻と同じように、この時代のこの階級のこの地方の犠牲者であったというとらえ方がはっきりとわかるようになっている。

ベルトランは妻の心を忖度できず妻の知性を理解できない自らの愚鈍さの犠牲者でもある。

けれどもベルトランはこの、自分の周囲の女性にはない個性を持ったテレーズに惹かれていて、テレーズから愛されていないことに最後までフラストレーションを抱いている。
それをジル・ルルーシュがうまく演じている。テレーズがオードレー・トトゥだから説得力がある。

テレーズは原作ではモノローグで内面を語るが、映画では外に出る台詞しか聞こえない。

オードレー・トトゥーが原作を読んでいたかどうかは知らないが、シナリオの自分の台詞すべての横に「内面の声」「テレーズが本当に言いたいこと」を書きつけていたそうだ。
それが彼女の表の台詞に深みを与えている。

それはジル・ルルーシュもそうで、この時代のこの階級の習慣で互いに敬称で話しているのに、時々二人共親称が飛び出ることがあり、それが内面と外面がショートした火花のような効果を出している。

原作では回想形式になっているものを時系列で撮影し、ラストシーンでパリの待ちを歩くテレーズの表情から、群衆の中で匿名の存在でいられることの喜びがにじみ出ていることで、映画は「解放」や「自由」を強調している。

モーリアックの視線が「神が自分の創造したものに対する憐れみ」に徹しているのとはかなり違う。

考えてみると、女性の毒殺者をヒロインにした映画はいろいろある。

毒殺という「選択」には実存的な絶望があるのかもしれない。

死を間近にしたクロード・ミレールは、それでも、「希望」を描きたかった。
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by mariastella | 2016-06-29 08:51 | 映画
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