L'art de croire             竹下節子ブログ

精神の健全さとは その15 (最終回)

前回からの続きです

いよいよ最後の項目です。

15.現実処理能力を使い切らない能力

あるいは「使い切らすように人にしむけない能力」、だそうだ。

多くの統合失調症者の発病、再発は、彼らが現実能力を使い果たした時点で起こりがちだという。

12番目に「現実対処の方法を複数持ち合せていること」とあったことと当然関係するだろう。

現実対処の方法を複数持ち合せていれば、一つのやり方だけで力を使い切ってしまわないで済む。

これがだめならそれがある、あれもある、という見通しを持ち合わせていれば心に余裕ができて、「燃え尽き」を防げるだろう。

世間では、全力を「尽くす」というように、力を出し切るというのが美徳のように言われることが多いけれど、

方向性が正しくて、時間に限りがあるならばそれでもいいが、
方向性が間違っていたりずれてきていたりしたら、

やり方を変える余力を少し残しておいた方が修正できる。

時間制限がない長丁場である場合も、力の配分を考えて、「細く長く」の路線も採用できるようにしておいた方がいい。

カトリックにすり合わせてみれば、今までにも見てきたように、神学部分、民間信仰の部分、信の部分と技の部分など、曖昧ゾーンも含めて多面体をなしているので、長い目で見ると融通がききやすい。

原理主義的に、あるいは権威主義的に突き進むといった時代や場所があったとしても、「謝罪」や「赦し」のシステムが発達しているので軌道修正が可能だ。

罪障が来世を決めるまで積み重なっていくのではなく、

告解、免罪符、神のあわれみを請う、聖人の取次ぎを頼む、などいろいろな「免償」の手立て、道筋がある。

考えてみると、現実処理能力をとことん使い切るような組織や体制は、いつか必ず何かの破綻を見せる。
「処理しなければならない現実」とは形を変えて無限に現れるからだ。

能力を使い切らないようにしておくと、処理すべき現実の中で思いがけなく得られるものがあるなどして、能力が進化することだってある。火種を絶やさなければまた豊かな燃料が補給されることだってある。

さて、これで15 項目がでそろったことになる。

注意しなければいけないこと。

これら「健全さ」の指標は、もともと「分裂状態によって社会生活不適応を起こしている人」の治療の程度を「適度」なところで押えて、反対方向に極端に針が触れるところまで仕上げてはならないというための指針だ。

逆に考えると、すべてその対極にあるタイプの人で、それによって社会生活不適応を起こしている場合にも、別方向からながめて適用できる「中庸の勧め」ともなる。

といっても、これらは、不適応を起こしている人をサポートする中井さんのような人にとって大切な指標であり、普通の人が、他者に対して適用してはいけない。

必死に努力している人、
原則を断固として曲げない人、
いつも120%の力を発揮することを自分に課している人、
外の世界に惑わされることなく自分の選んだ世界に没頭している人、

などを見て、

「不健全だ」「融通が利かない」「あれでは今に力尽きる、心身のバランスを崩す」

などとまちがっても批判したり裁いたりしてはならない。

あくまでも、「自分」自身のやりすぎに対するチェック事項で、心身が疲れのサインを送ってきたのを感知した時に、適用するものだ、と理解する。

危機管理のツールだと言ってもいい。

優柔不断や怠け癖を正当化するために使うのはまずいだろう。

でも、この15の指標は一つ一つというより、全体としてよくできているので、誰でもいろんな局面で、その時の自分が必要としている「中庸」を見出すのに役に立つのではないだろうか。

カトリックが今まで続いていることの理由のひとつとして自浄能力を発揮できたということをところどころで書いてきた。

カトリックは、時代や場所によって分裂したり、融通が利かない原理主義になったり、後から謝罪するはめになる明らかな過ちに長い間固執したり、特定集団の利権にとらわれたりという情況を生きてきた。

それでもどこかに原初のイエス・キリストから受けた「愛」のメッセージ(人は神から愛されていて、互いに愛することができる)に立ち返る「形状記憶」を残すシステムがあるからこそ生きながらえたのだろう。

その構造には、両義性、複数のアイデンティティ、改革の遅さ、不徹底、分裂を内在させる耐性などが備わっている。

今となっては、世間から投げつけられる遠慮のない嘲笑・揶揄・攻撃などをスルーできている能力などを見ると、中井流「精神の健全さ」が宿っているのが分かる。

中井さんはきっとそういうことを感知して、カトリック的なものに惹かれてきたのかもしれない。

PS : このシリーズの15の基準についての解説は、全く私の個人的な感想であって、精神科医としての中井先生の真意や教えとは関係ありません(ひょっとしてあるかもしれませんが)。
またカトリックにすり合わせましたが、中井先生がカトリックの洗礼を受けられたこととの関係も、もちろん分かりません。
ただ、先生の洗礼のニュースを聞いてから、この「基準」を通して、スキゾ親和性というものとカトリックの相性がいいような気がしてきたのは事実です。
そして何よりも、この基準を読んでると、なにか気が楽になりました。
もともと力尽きるまで必死に何かをやったり整合性を重要視したりわき目もふらずに進んだりなどというタイプではなく、はっきり言って怠け者で意志が弱いので、何となく引け目を感じていたのが、「あれ、私って精神が健全?」と安心したかも。
この話をした数人の友人はみな「私も健全」って言っていました。「類は友をよぶ」ってやつでしょうか・・・
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by mariastella | 2016-07-07 16:04 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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