L'art de croire             竹下節子ブログ

『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』スティーヴン・フリアーズ監督Florence Foster Jenkins

前に『偉大なるマルグリット』(グザヴィエ・ジャノリ監督カトリーヌ・フロ主演)について 書いた時、同じテーマがヒュー・グラントとメリル・ストリープでも制作中だと書いたけれど、それがようやく封切されたので、好奇心満々で観に行った。

50代半ばのヒュー・グラントは久しぶりで年とったなぁという感じだが、俳優になる野心を捨てて楽になった英国貴族の庶子という役どころで、この人が、同衾しないまま25年も続いている別居結婚の妻を本当は愛しているのかどうかよくわからない微妙なところがうまい。

最初の結婚で梅毒に感染したがその後50年も生きながらえた裕福な妻で音楽メセナのフローレンスを演じるのが67歳のメリル・ストリープで、老け役メイクとはいえ、そして10年前とはいえ『プラダを着た悪魔』のような役を演じていた人が、このような老いて疲れた役で説得力ある熱演しているのはさすがだ。

この不思議な二人に、夫の若い愛人と、妻の歌の伴奏をするために雇われたピアニストが絡むのだけれど、ニコラス・ケージを若く小柄にしたみたいな表情の30代のサイモン・マクスウェル・ヘルバーグという俳優がうまい。ほとんどが雄弁な表情だけで語られる。

当然『マルグリット』と比較しようと思って観に行ったのだけれど、実在の同じ人がモデルなのに映画は全く違うので比較しにくい。

『マルグリット』は時代も遡らせ場所もフランスに変えた不思議な人工のおとぎ話の中で、ずっと悲壮で残酷な物語が展開していた。

マルグリットは愛に飢えて精神の病を抱え、音楽耳を持っていて、ただ一つの欠点は自分の声を客観的に聴けなかったことで、録音した自分の声を聴いて初めて幻想が崩壊する。

『フローレンス』の方は実話通りに、舞台は1944年のニュー・ヨークだ。

日本人としては、第二次大戦の末期に日本が戦っていたのはこんなに華やかで裕福な社交界があり、カーネギー・ホールでトスカニーニが指揮していたような国なんだなあ、という感慨がまずある。

ラストに、慰労のために招待された酔っぱらいの海軍兵ら千人がカーネギーホールに詰めかける様子や、フローレンスがショックを受けた酷評の載ったニューヨーク・ポスト紙の一面には大きな字でJapan Sea Power Brokenとか書いてあるなど、複雑な気持ちになる。

フローレンスは、マルグリットとちがって、ぼろぼろなのは精神よりも肉体だ。

精神の方は、ある意味、献身的な夫にいつも見守られていることでマルグリットよりも数段満たされると言っていい。

歌の「下手ぶり」だが、

マルグリットは、自分の出す音を聴けていないということについて、音楽を教えているものの一人としていろいろなことを考えさせられたが、

フローレンスの方は、単に、歌が下手で、テクニックもなく何より体力もない老女が、自分のレベルに合わないレパートリーを無理にうたって当然破綻しているというだけだ。

マルグリットの「音の外し方」は確かプロの歌手が研究してわざわざ音を外してアフレコをしていただけあって、「下手さ」に説得力がある。

フローレンスは実際の声のレコードも残っているわけだけれど、そこには「下手さ」があっても「悲壮さの裏打ち、悲劇の予感」はない。

フローレンスは梅毒による手の神経の麻痺以前にはピアノも弾いていたのだから、平均律のピアノならそれなりに弾けていたということなのだろう。

ピアニストが採用されたのはフローレンスの前でのオーディションで、静かな曲を所望されてサンサーンスの『白鳥』を弾いてみせたからだった。

後日、左手の指は麻痺しているけれど右手指はかろうじて動かせるフローレンスが右手でショパンのプレリュードをぽろんぽろんと弾き始める。
するとそこにピアニストが左手のパートをそっと加えてやる。

この曲は左手の和音のハーモニー進行が美しいもので、私も生徒に教えるときにメロディを意識させるためによくシンプルな右手だけを弾かせて伴奏を私が弾いてやることがある。
単純な右手を支える一見単調な左手の起伏に富んだ表情が上品だ。

このささやかな小さなデュオがピアニストとフローレンスの心を結びつけて彼らを「友だち」に変えた。
そのプレリュードがそのまま突然ジャズ風にアレンジされて、フローレンスの夫と愛人が楽しむシーンに陽気にかぶさっていく。

そのような音楽は効果的に使われているのだけれど、歌の部分は重要ではなくヒュー・グラントとメリル・ストリープのクローズアップが多用される表情のインパクトの方が大きい。

しかし『マルグリット』のような悪意や偽善や絶望が渦巻いていたり堆積したりしていないので、全体的に上品で穏やかで、フローレンスがどんなにエキセントリックでも弱々しいままだ。いつ暴発して崩れ去るかもわからない鬼気迫るマルグリットのようにはならない。

最も情動が刺激されるシーンは、小劇場では空気を読めずに笑い転げて退場させられた教養のなさそうなブロンド女が、カーネギーホールでは立ち上がって、笑い出し騒ぎ出した海兵隊たちを怒鳴りつけ、フローレンスが歌い続けられるように、と熱弁するシーンかもしれない。

カーネギーホールの資料で今も、もっとも人気があるのがこの時の貸し切り公演のものだそうだ。

コンサートの前に海軍総督がフローレンスに感謝の辞を述べるシーンもあった。

アメリカが日本と戦争していなかったら、この日の公演はなく、この映画も生まれていなかったのかもしれない、とふと、考える。
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by mariastella | 2016-07-15 07:17 | 映画
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