L'art de croire             竹下節子ブログ

喪のディスクール

(この記事は前の記事の続きではなく、雑感に近いものです)

死の前で悲しみにくれる人にかける言葉というのは難しい。

テロの犠牲者が出るたびにフランスのカトリック教会は追悼ミサを捧げ、司教たちが説教で喪のディスクールをしてきた。

基本は一貫している。

非道は弾劾するが、憎しみや怒りよりも、祈りを通して和解と赦しと希望を呼びかける。

でも、「当事者」でない時は、その言葉が悲憤する心に届かないことがある。「余命宣告」の受容と同じで、受け入れる心にも段階がある。

仏教の『長者子懊悩三處経』というのに、林の中を散歩中、妻に花を所望された夫が木に登り、転落して死んだ話が出てくる。

夫の父母(長者)がそれを知って駆けつけて息子の頭を抱きさするが蘇らない。悲しみで五臓がいたむ様子を人々は哀痛した。

そこに仏陀が阿難と共に通りかかり、長者に告げて言う。

「人に生死あり、ものに成敗あり、時到りて命尽くるは避ける能わず。
故に憂念を去りて慼(うれ)ふる勿れ。
此子、天上より卿が家に来たり、壽尽きて卿が家を去る。
これ天の子にもあらず、また卿の子にもあらず、子の因縁に縒りて生死す。なお旅客のごとし」

とても仏教的で、執着から来る悲しみを慰めて悟りに至らせる至言だと思う。

でも、実際問題として、まさに、事故死したばかりの息子の亡骸を搔き抱いている親の心に届くだろうか。

私がこの息子の親だとしたら、今はほっといてほしい、存分に嘆いて天を恨ませてほしいと思うかもしれない。
もっと言うと、息子に花を所望した嫁に「あんたのせいだ!人殺し!」と理不尽に怒ることだってありそうだ。

だから、いくらお釈迦さまやカトリック教会が正論を言ってくれても、

「当事者でないあんたたちに言われたくない」

と思う人がいてもおかしくない。

でも今回は、まさにフランスのカトリック教会の司祭が教会内で惨殺されたのだから、フランスの司教たちが「いつも通り」の言葉を発しても、「当事者」なのだから、きれいごとだと言われずに皆からちゃんと聞いてもらえる。
11月のテロの後で被害者の家族が「テロリストを憎まない」と言って感動されたのと同じだ。

だから、今回のテロの後での「喪のディスクール」には注目させられる。

水曜日にWYDでポーランド入りした教皇が、集まった若者たちに向かって

「はい、まず、アメル神父のために一分間の黙祷をしましょう」

などと言わずに、

「恐れるな、be happy, be joyful」という感じのことを言ったのはよかったなあと思う。

で、フランスのパリのノートルダム大聖堂で追悼ミサをしたアンドレ・ヴァントトロワ大司教。

すべての人に自由を訴えて一体となる希望が絶望の道、死の報復を遮る、アメル神父はこの希望に生かされていた、

というのは大切なイントロ。

「シェルター症候群」のたとえもよかった。

「シェルター症候群」とは

金持ちの核シェルター、庶民の垣根、防犯システム、各種保険、国に絶対のセキュリティを求め、少しでも齟齬があると責任を追及しまくること、すべては「閉鎖」の手段だ。
過去に要塞都市や城砦でもできなかったことを今は完成できるはずだ。
我々の財産を盗むもの、他の土地から我々のところに来る者に対して防御しよう。
壁と、国境と、沈黙によって身を守ろう。

という昨今の傾向で、テロリストはその恐怖と分断につけ込む。

それに対抗する力は、アメル神父の生き方をインスパイアしていた「希望の」中にしか見つけられない。

など、キリスト教の「信仰、希望、愛」の「希望」を強調している。

とても良い、というか、あるべき説教だ。

でも、私はそれをまとめるための聖書の言葉の引用に違和感があった。

彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。

という「主のことば」だ。

前の記事でも書いたけれど、書かれた時代背景が広範にわたるコーランと違って、「イエスのことば」とされるものは短期間なので、それなりに整合性がある。

でも、旧約聖書となると、コーランよりももっと複雑ないろいろなテキストが編集されたものだから、そのどこかのフレーズを取り出すだけなら、それに反するフレーズだって簡単に見つけ出される。

神学論議は別として、聖書の言葉を「都合のよいように利用する」人たちはいくらでもいる。

だから、大司教が今回のように一般にも注目される「喪のディスクール」において引用するときは注意した方がいいのではないだろうか。

この引用は「最終的に悪が栄えることはない」、と力づけてくれるわけだけれど、エレミア書の15章からの引用であり、その前後を確認してしまう一般人には突っ込みどころが多すぎてなんだか恣意的に聞こえる。

また、詩編59の

神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ。

というのも引用される。

「シェルター症候群で閉じこもってはいけない、愛の神こそが最強の砦なのだ」

という文脈の中では素晴らしい言葉だと思う。
テロリストがどんなに蛮行を重ねても、最終的には愛の神こそが、それを防ぐ要塞なのだ。

でも、その詩編の前の部分には

わたしの神よ、わたしを敵から助け出し/立ち向かう者からはるかに高く置いてください。悪を行う者から助け出し/流血の罪を犯す者から救ってください。
御覧ください、主よ/力ある者がわたしの命をねらって待ち伏せし/争いを仕掛けて来ます。罪もなく過ちもなく悪事をはたらいたこともないわたしを/打ち破ろうとして身構えています。目覚めてわたしに向かい、御覧ください。
あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください。悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。

だとか

御怒りによって彼らを絶やし/絶やして、ひとりも残さないでください

などというフレーズもある。

「復讐するのは神にあり」

で、人間が神に代わって人間を裁いて報復殺人をしてはいけない、というのは分かるけれど、

「神様、仏様、どうか悪い奴らに神罰、仏罰をお与えください」

という気持ちは古今東西「人間的」なのだ。

教会内で殺されたカトリックの司祭を悼む喪の言葉を、カトリックの大聖堂でおそれおおくもカトリックの大司教が発するのだから、もちろんそれを素直に受け入れて慰められ勇気づけられる人を対象としているので、こんな感想を抱くのは筋違いだろう。(すみません)

でも、今回のようにフランスのカトリック教会がテロの「犠牲の当事者」であってその言説が広く共有されて注目されている時だから、引用された素晴らしい言葉の前後を検索してしまって勝手に違和感をいだく私のような馬鹿な人もいるかもしれない。

「聖典」からの引用というのは慎重にしなければいけないなあ、と自戒を促されてしまった。
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by mariastella | 2016-07-28 19:55 | 宗教
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