L'art de croire             竹下節子ブログ

フランスの教会テロについての記事のまとめ(追記あり)

このところフランスの教会でのテロのテーマのせいか、ブログを訪れてくれる方が多く、いくつか質問をもらっている。

サイトの掲示板でやり取りしたものもあるけれど、そこで答えられなかってものをここでまとめて書いておくことにしよう。

私のこのブログはいわゆる「ブロガー」と呼ばれる方が、意見発表または自己表現または読者へのサービスとして書いているものとは違って、プロフィールにも断っているように、考えの「断片」で、「断片」にしては長いじゃないかと言われそうだが、想定読者やページ数の制限や、テーマの制限なしに考えたことを主として自分のために記録しているものだ。

だから、フランスのニュースを扱っているとしても、それがフランスで一般的に知られていること、マジョリティの意見などではない。

フランス・ニュースを知りたい方にはいくらでも他のブログやニュースがあると思うのでまずそこのところをよろしく。

たとえば、私は今回のテロにむしろ希望を覚えたと書いたが、そう考えるのは私のように「希望」をキャッチして生かしたいと思っている人だけだ。

普通にこちらのメディアを見ていたら、

今までと同じく、ほとんどの報道は扇情的で、

善の化身のような人が悪魔のようなテロリストに殺された、

危険性が分かっていたテロリストを解放した裁判官が悪い、

野放しにしていた警察が悪い、

SNSの規制をしない大企業が悪い、

あるいはフランスのシリア爆撃が悪い、

教会の警備が足りない、

モスクの監視が足りない、

緊急事態条項の徹底が足らない、

悪の排除の覚悟が足りない、

諜報活動における連携が足らない。

情報が足らない(危険人物のリストに名前だけで顔写真がなく、写真情報を照合できなかったなど)、

など、たいていは「悪い」、「足りない」、のオンパレードである。

でもだからこそ、宗教者のディスクールがメディアを補完してくれる。

日本でも『神々と男たち』(1996)の映画で有名になったアルジェリアでテロリストに惨殺されたフランス人修道士たちの例はもちろん、1980年に病院のチャペル内でミサを挙行中に撃たれたサンサルバドル大司教のオスカル・ロメロ(2015年に列福)まで、内乱など危険な状態の国で使命を遂行して殉教した人たちが残してくれた課題や、南アフリカの人種差別の和解など、長いスパンで、限定的な政治状況を超えて「とるべき道」の蓄積は少なくない。

特にカトリック教会はたどれる歴史が長く、過ちも含めて近代の波にもまれた経験資産が大きい。耳を傾けるに値する。

で、パリの大司教がダニエル書を引いたことについて書いたことについて、ダニエル書も詩編もその日の決まった朗読箇所であり、まさに、誤解を与えないように、「適切な部分」だけをあらためて引用したのだという指摘もあったのだが、それはその日のミサに出ていた人やKTO(フランスのカトリック・ネットテレビ)ですべてを聞いていた人にはその通りだ。

でもフランスの多くの人は、今回のテーマだからこそフランスの普通のメディアにも広く知らされた彼のディスクールの部分だけを読むわけで、この日の大司教にとってはもちろん正しい選択だけれど、私のような人間が一般読者に向けて何か書くときには旧約聖書の一部引用というのは便利でも気をつけなければならないなあと自戒したわけだ。

もう一つ、カズヌーヴ内相が「フランスを警察国家にはしない」とし、たとえ緊急事態宣言の期間でも、違憲になるようなことはしないと言っていることについてだ。

この決意はもちろん貴重だ。

でも何十年もフランスに住んできて、最初は一部の人を想定して制定された法律がいつの間にかなし崩しにすべての人に及んでいた、という実態を私は実際に見ている。

たとえば、30年くらい前には脱税調査などで、はじめは麻薬取引などの犯罪によって得た金の「資金洗浄」(マネー・ロンダリング)を対象だけに限られていた調査権の拡大が、今では、財政難だからと言って、普通の人のへそくり程度のものにまで拡大されて適用されている(それなのに大富裕層の人たちがあの手この手で「節税」をしているのはもちろんだ)。

大切なのはむしろ、最初の法律制定の時にしっかりと何を対象としたものかの「線引き」を明確にすることで、時に応じて政府が解釈を変えることができるような含みを持たせてはいけなかったということだ。

国家が個人の情報に踏み入ることができるような権利や自由を制限できるような権利については、「総論」だけではなく、最初から細かく、故意の悪用やなし崩しの拡大までを想定してガードしなくてはいけない。

制限すべきなのは人権ではなくて法律の方なのだ。

「解釈」で動くようなものであれば、どんどん政治の道具にされてしまう。

フランスですらそうなのだ。

書いていくときりがないけれど、

「いつのまにかこうなっていた」

という場合、それは決して「いつのまにか」ではなく、最初から、ほうっておけば弱者を蝕むベクトルを含んでいたということだと、今にして分かることがある。

ではどうしたらいいのか?

そのためにも、常に弱者の側に立つ、力というものは他者に仕えるためにだけ使う、ということについてはぶれない今のカトリック教会の発する言葉をこれからも注意深く追っていこうと思っている。


追記: テロとは直接関係がないが、WYDについての記事の中で、参加資格には洗礼を受けているとか受けたいと思っている人などというものはないと書いたが、それでも、もちろん毎日カトリックの要理だのミサだのがあるわけで、実際問題として非カトリックの若者はいないのではないかという質問があった。

今回実例として挙がっているものに、20歳の学生のカップルの参加がある。
男性はカトリックでその恋人は「無神論者」だと自分で言っている。
でもお祭りに参加するのは合意した。男性は彼女が「回心」体験をするのではないかと期待しているらしいが彼女の方はまだ何も変わっていない、と言っている。

確かに、少なくともカトリックの友だちに同行するのでなければ冒険できにくいかもしれない。
でも45年前の私の前にこういう情報が与えられたらやはりチャンスだと思って参加するかも。

(まあ45年前は1ドル360円の時代で、パスポートも一回きり、海外旅行はいろいろ難しかったから誰も行けないというか、WYDそのものが企画不可能だったろうけれど。しかも、当時共産圏のポーランド。そんなことを思うと、テロのリスクがあろうとなかろうと、今は若者たちが簡単に世界を見聞できるいい時代になっていると思う。絶望してはいけない。)
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by mariastella | 2016-07-31 01:23 | フランス
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