L'art de croire             竹下節子ブログ

ゲイの結婚に思う宗教と社会

フランスでは社会党のオランドが公約の一つに挙げていた「同性愛者の結婚を認める」法律が来月にも成立しそうなので、反対派のデモが騒がしい。

結婚が同性同士にも広がると、身分証明などの父母の呼称が親1、親2とかの表記になるために、民法自体が変わるので、そんなものは不自然だと反対する人が少なくないのだ。

賛成派の理由は、ゲイのロビーが言いそうな「同性愛者差別撤廃、異性愛者と同様の権利を」というものだけではなく、現状では同性愛者の公認された事実婚カップルは養子縁組をすることが不可能なので、正式に養子をとるための唯一の方法が「結婚」だからというものらしい。

私は養子縁組を真剣に望む自立した成人のカップルなら、同性同士だろうが友人同士だろうが兄弟だろうが、経済的環境的なしかるべき条件を満たしてさえいるなら、普通の夫婦と同様に養子縁組が可能になるべきだと考えている。

そんな場合は、無理に父とか母とか言わす必要もない。

生物学的両親だってわが子を虐待したり捨てたりするケースだっていくらでもある。

大人の愛情と保護を必要としているのに与えられていない未成年の子供に一人でも「家庭」環境を与えてやれるのなら、続き柄など問題ではないと思う。

それなのに、その要件を結婚に限定している現状を保持したままで、だからゲイのカップルにも結婚を、などという方向に向かって、父と母の呼称を民法からなくすとするのは、どこか勘違いしているように思える。

オランドは、実際に結婚式を執行するかどうかは、各地の市町村の長の良心にまかせる、などという変なことまで言いだした。

つまり、住んでいる町の市長がゲイの結婚反対派なら、賛成派の町で結婚すればいいので事実上、ゲイのカップルは正式に結婚できるというわけだ。

フランスの結婚は、役所の式場で執り行われる「結婚式」によって成立する。

市長や助役による結婚の心得やエスプリについての話を傾聴して祝福されて、誓いの言葉を言わされて、新夫婦が証人2人と共に書類にサインすると家族手帳を交付されるのだ。

なぜかというと、長い間、結婚式、いや冠婚葬祭のすべてが、フランス中にあるカトリック教会の儀式だったからである。

そもそも市町村とか県とかいう区切りも、小教区や司教区などから派生したものだ。

フランス革命でカトリック教会のネットワークを全否定しようとした「共和国」政府が、冠婚葬祭をまるまる引き継いだのが市役所の結婚式で、司祭の服装の代 わりにトリコロールのたすきを掛けて夫婦を結びつける市長や助役は完全に「世俗司祭」の役どころだ。洗礼式や代父代母の制度まで、申し込めば市役所でやれ るようになっている。

で、今の民法では、市役所での結婚証明書を持っていない者に教会で結婚を司式するのは違法行為となっている。

そういうシステムをカトリック教会が受け入れたのは、共和国の結婚の概念がカトリック教会のそれと同じだと認めたからだった。つまり、一夫一婦で、互いの合意のみに基づいて、健やかな時も病める時も、死が2人を分かつまで夫婦として支え合って暮らすという誓いだ。

それでいくと、もし今回の民法での結婚がカトリック教会のそれとは大きく変わってくるなら、カトリックは政教分離の後に成立した合意を守る必要はない、つまりカトリック教会は市役所とは独立して結婚を司式できるのではないか、という意見も出てきている。

確かに、今でも、たとえば離婚手続きについては、カトリック教会は離婚を基本的に認めていないのだから、たとえ共和国の法律上で離婚が成立したとしてもカトリックの結婚「台帳」からは消してもらえない。それを無効にする強制力は共和国の法律にはない。

離婚者は原則としていないのだから、カトリック教会は離婚への聖体拝授を拒否しているわけではない。

ただ、民法上の離婚者が民法上で「再婚」した場合には「姦通」状態にあるとされて聖体拝受を拒否されるだけだ。

そのために離婚しても再婚しないままで教会に通い続けている人もいる。(教会に結婚の無効を申し立てる手続きもあるがそれはかなりハードルが高い。)

しかしフランスはもう百年以上もこうした教会VS共和国の綱引きをしているものだから、いろいろなニュアンスが出てきておもしろい。

たとえば、現在人口650人の小さな村の首長で同時に司祭でもあるという人がいる。

その人は、神父になってもう40年になる。

地方公共体の首長となって共和国の結婚式を司式するようになってからの期間はそれよりずっと短い。

当然、「各首長がそれぞれの良心に従って判断する」という通達があれば、同性愛者の結婚は拒否するだろうと思うが、そうではない。

共和国の法律がいったん変われば、それに基づいてゲイのカップルが合法的な結婚式を望む場合にそれを拒否する理由はない、と、この司祭さんは言い切る(もちろん司祭としてではなく共和国の結婚式を挙げることに限ってであり、教会の結婚式ではない)。

がちがちの筋金入りの共和国主義者でもある聖職者はフランスに決して少なくない。

まあこの人の場合は、自分が村長をやっている村の小教区の司祭ではない、自分の教区は別のところだ、というのが逃げ道というか微妙な具合なのだが。

アメリカも州によって保守的だったりリベラルだったりして、同性婚を認めて経済効果があったというところもあるようだが、保守的な層も厚い。

今度のフランスでの議論で、オバマ大統領も同性婚支持というアメリカの状況を例に挙げる人もいたが、教会ロビーの話が出ると、ある論客が、

「アメリカは神から守ってもらっている国だが、フランスは神から自分を守っている国なのだから」

と切って捨てたのは、久しぶりに米仏の違いを前面に出して語られるのを聞いて興味深かった。

確かに神の加護を公に恃んでいるような国は、冠婚葬祭と宗教モラルを簡単に切り離せない。

フランスは神を口にしないことがアイデンティティの一つなのだが、今度の件についてはさすがに、国民議会が宗教界の代表者を招いて公聴会が開かれた。

カトリック、プロテスタント、正教、イスラム、ユダヤ教は、いずれも男と女を創った同じ創造神を戴く一神教だから、意見を聞かれれば、異性婚が人間の自然の秩序であるという答え方になるのは当然だ。

この席で、ただ一人「中立」の立場を表明したのはフランス仏教者連合の代表者である。

大司教やらイマムやらラビなど、なんだかこてこてにマッチョな雰囲気がする一神教代表者たちのそばで唯一紅一点の女性仏教者は、チベット仏教の僧服なので赤と黄の色も鮮やかで目立っていた。

彼女は私の義妹であり、同性婚についても事前に2人で話し合っていたので、中立を守ったのはよかった。

最近宗教と社会の関係を考えさせられたことがもうひとつある。

11月に日本にいた時、国立小劇場で融通念佛宗総本山「大念佛寺の声明-万部法要」というのを観に行った。

金ぴかの面をつけた華麗なコスプレで奏楽しながら「お練り」する25体の菩薩の行列も圧巻だし、カンカンと響く鉦の音にかぶせて1秒に3拍位のハイピッチで全くぶれず一気に唱えられる仏説阿弥陀経だの、緩急緩のリズムが素晴らしくて息継ぎすら聞こえない回向文だの、まさに名人芸が展開される。

私は前にも国立小劇場で声明の聴き比べをしたことがある。普通なら比叡山だとか、今回は大阪市平野区にあるこの大念佛寺でしか見られないようなものを、無形民俗文化財として東京の国立劇場で見られることが、不思議だ。

フランスにもカトリック教会のさまざまなフォークロリックな行事がたくさんあるけれど、いわゆる「ミサ曲」や「聖歌」などをコンサートで聴けることはあっても、本格的な「行事」が劇場にかかって、チケットを買って観に行けるというのは考えられない。

宗教行事は宗教施設の現場や典礼カレンダーに添った時期にしか見られない。

この「大念佛寺の声明」公演では、もちろん、数珠を手にして真剣に念仏を唱えている人も客席にいた。けれども、ただの「観客」が「場違い」の違和感を持たれるという雰囲気ではない。外国人もいる。日本人には寝ている人もちらほらいた。

地方の有名な「祭」のデモンストレーションが他のところでも行われるというのはなんとなく分かるが、専任の僧たちによる宗教のコアな部分が劇場の舞台の上で繰り広げられるというのにかなり驚かされる。

逆にいえば、このように貴重なものを、解説と共にゆっくり座って見せてもらえて非常にありがたい。正座ではないから楽だし。

こうなると、日本の社会における宗教の占める位置というものの独特さについて考えさせられる。

これは成熟なのか、本格的な世俗化が起きているのか、ただの「無関心」や「無節操」なのだろうか。

同じ頃、表参道と青山通りの間に「セント・グレース大聖堂」というのがあって、夕方ライトアップされているのを見て驚いたことも思いだした。

カテドラル型の結婚式場なのだ。

検索すると、千葉や埼玉などには、「大聖堂」どころかそれを中心にしたコートダジュール風とか、ヨーロッパの街並みがそのまま再現されている完全なテーマパークのような大規模のものも少なくない。

考えてみると、表参道と言えば明治神宮への参道なのに、これははっきりとキリスト教であるユニオンチャーチだって堂々と沿道に建っている。デートスポットしても利用されているそうだ。

まあ、ユニオンチャーチは「本物の教会」だから定期的にホームレスなどを対象にした炊き出しをやっていたりするのだから、表参道に面する他のショップと違って社会的使命も果たしている。「…大聖堂」という結婚式場とは本質的に違う。

でも、たとえばヨーロッパの巡礼地になっている大規模聖堂への参道に面して仏教寺院が建っているとか、その近くに日本の神社を摸した「・・大社」という名を冠した結婚式場が鎮座しているところなどは想像できない。

歴史的経緯の差とかいう以上に、何かもっと根本的な、社会と宗教の関係の差があるような気がする。

もちろん、どちらがいいとか悪いとかいう話ではない。

ただ、日本のような国って、ずっと、自分ちのいいものは残してよそのいいものも持ってこようという「いいとこどり」を続けてきた感があり、その結果、「い いもの」を判別する基準がなくなったり、何か大きなものがなくなってしまったりしているのでは、という気は、確かに、する。
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by mariastella | 2013-04-05 00:44 | フランス
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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