L'art de croire             竹下節子ブログ

シスターたちの見たテロ その7

(これはその6の続きです。)

シスターたちはジャック(アメル神父)をよく食事に招待していた。

「彼は音楽が好きで、ミサの美しさにもとてもこだわっていました」

「ねらわれたのは私たちですけれど他のすべての人でもあります。このような暴力はとても受け入れられません。彼らは本物のムスリムではありません」

とシスター・ダニエルが言う。

「彼らが自分たちのしていたことを意識していたのかどうか疑問です。彼らを理解しようとしてはいけません」

とシスター・エレーヌは言う。

悲劇 ?

「他のすべてのことと同じように過ぎていくでしょう」。

最後に、とてもおだやかな優しい声でシスター・ユゲットが付け加えた。

「2016年は『いつくしみの年』です」と。

「無辜の人間が無情に惨殺される」という事件を前にするとたいていの人はそれをあってはならないひどいこと、絶対の悪だとみて怒りにかられる。

そのような「正義に反する」罪を犯したものは制裁しなければならないとの思いを共有する。

だからこそ、「文明国」ではそのような力を正当化するための警察や軍隊などの「暴力装置」が法制化され設置されている。

一方で、ローマ・カトリックを中心に作り上げられていったヨーロッパ文化のルーツにはキリスト教「殉教者」文化がある。

多くのキリスト教徒が、キリスト教徒であるがゆえに迫害されて殺されてきた。彼らの死は「敗北」ではなく信仰を表明するものだった。

なぜなら、キリスト教の根本にはまさに罪なくして惨殺された「子なる神イエス・キリスト」がいて、その復活がキリスト教をスタートさせたからだ。

しかも、キリストとキリストに続いて命を捧げた使徒や信徒たちは、いずれも、罪がないばかりか殺人者たちを「あらかじめ」赦している。

「目には目を」の報復ではない愛と赦しをもってすべての人を和解させて救おう、という宗教だった。

「殉教者」のディスクールがあり、
殉教を前にしたディスクールがあり、
聖人システムによって無数の殉教者とつながり交わることのできるノウハウもたくさんある。

欲に目がくらんだ世俗の権力者が織りなしてきた侵略や報復のディスクールよりもはるかにたくさんあるのだ。

イスラムの神の名においてカトリック教会で司祭を惨殺するという行為は、一見すると「宗教戦争」を触発するのではないかと思われるかもしれない。
テロリストたちがもしそれをねらっていたのだとしたら、見事に当てが外れた。

19歳の2人の殺人者たちは、2千年前に不当な処刑を受け入れた神の子とつながる80代の司祭や信徒やシスターたちのいる場所に踏み込んだことで、「いつくしみ」のディスクールを誘発し、多くの教区で対話と連帯のモティヴェーションを高めることになったのだ。

(このシスターたちの証言は『La Vie / No.3701-3702』の記事から再構成したものです。
このカトリック週刊誌はアメル神父が定期購読していたもので、シスターたちのところで食事を一緒にするたびに届けていたそうで、その縁でシスターたちがジャーナリストに答えたということです。
いろいろなことを考えさせてもらえた貴重な証言でした。) 終り
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by mariastella | 2016-08-13 05:24 | 宗教
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