L'art de croire             竹下節子ブログ

障碍の神学

アメル神父が教会で殺されたことと、相模原の施設で障碍者が殺されたこととはある意味でパラレルで象徴的な事件だと思っている。

どちらも、被害者は私たちに「証しをする人」という意味での「殉教者」だと思う。

「障碍の神学」の解説を読んだ。

聖母被昇天会 (assomptionniste)の神父で経済学者、神学者、カトリック大学で政治経済道徳神学を教えるDominique Greiner師が、編集長を務めるカトリック日刊紙 「La Croix」のブログに掲載したものだ。

障碍、特に身体障碍についての神学はアングロ・サクソン圏で進んでいるのだそうだ。

参考文献として挙げられていたものには

1.Donald Senior, « Beware of the Canaanite Woman : Disability and the Bible », in : Marilyn E. Bishop (éd.), Religion and Disability. Essays in Scripture, Theology and Ethics, Sheed & Ward, Kansas City, 1995
2.Robert F. Molsberry, Blindsided by Grace : Entering the World of Disability, Minneapolis, Augsburg Books, 2004
3.Stanley Hauerwas, Suffering Presence. Theological Reflections on Medecine, the Mentally Handicapped, and the Church, University of Notre Dame Press, Notre Dame, Indiana, 1986. Voir aussi la reperise de diverses contributions de Hauerwas in : Swinton (ed), Critical Reflections on Stanley Hauerwas’ Theology of Disability, The Haworth Pastoral Press, Binghamton, 2005
4.Nancy L. Eiesland, The Disabled God : Toward a Liberatory Theology of Disability, Nashville, Abingdon Press, 1994
(ここには、釘傷や槍創などをかかえたまま「復活」したイエスが障碍者と重ねられている)。
5.Thomas E. Reynolds, Vulnerable Communion. A Theology of Disability and Hospitality, BrazosPress, Grand Rapid, Michigan, 2008

などがあり、フランス語文献では、彼自身も書いている

« Handicap : l’état des savoirs de la théologie chrétienne », in : Charles Gardou (dir.), Handicap, une encyclopédie des savoirs, Eres éditions, 2014

がある。

大きな問題だけれど、ここに覚書として要所をメモしておく。

まず、人間の共同体には理由は様々だけれどどこでも身体障碍者排除のシステムが事実上存在している。

旧約聖書の例では、

『レビ記 21章 16-23 』に

主はモーセに仰せになった。
アロンに告げなさい。あなたの子孫のうちで、障害のある者は、代々にわたって、神に食物をささげる務めをしてはならない。
だれでも、障害のある者、すなわち、目や足の不自由な者、鼻に欠陥のある者、手足の不釣り合いの者、
手足の折れた者、
背中にこぶのある者、目が弱く欠陥のある者、できものや疥癬のある者、睾丸のつぶれた者など
祭司アロンの子孫のうちで、以上の障害のある者はだれでも、主に燃やしてささげる献げ物の務めをしてはならない。彼には障害があるから、神に食物をささげる務めをしてはならない。
しかし、神の食物としてささげられたものは、神聖なる物も聖なる献げ物も食べることができる。
ただし、彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。わたしが、それらを聖別した主だからである。

という「神」の言葉がある。
障碍がある人には神殿の務めを課してはならないけれど神聖なものを食べたりはできる。
(それが「汚れ」という言葉を使っていなければ「務めを免除される」という共生の仕方に見えないこともない。)

『イザヤ書/ 56章 3-8』には

主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
なぜなら、主はこう言われる/宦官が、わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。
また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。

とある。

これは「わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るならみんな主の家の子」という感じだから、排除の思想でなく内包の思想に近い。

レビ記の言葉のせいで、「聖なるもの」と直接かかわるカトリックの司祭叙階には身体障碍者が避けられてきた。

けれども、慈しみに基づく公正や権利のリスペクトは、イスラエルのアイデンティティにとって神殿や典礼よりも根本的なものであるとされ、典礼からは遠ざけられる者も神に従うなら特別の場所を与えられる。

イエスはこれを敷衍した。

ヨハネからあなたはメシアですかと聞かれた時に

『イザヤ書/ 35章,4-6』の

心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。

というところに添った答えをしている。

『マタイによる福音書/ 11章,5』

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

神の前では身体障碍など意味をなさない。

「リベラルな社会は平等で独立した人間で構成されていると想定する。
そこでは誰でもが自分の独自の人生を生きて必ずしも他者に頼らずとも個性をのばすことができるとされる。

しかしそのように生きる能力は、社会や政治のシステムだけによって得られるものではなく、人間としてまっとうに生きるために必要だ。

生き方の選択や条件における多様性を称揚するリベラリズムのパースペクティヴは障碍の問題を前にするとき破たんする。知的障碍者はリベラルな社会に居場所がなくなる。

リベラル社会が障碍者を受け入れるのは、仕方がないからやっているので、できればいない方が助かるのだ。
これが知的障碍者の誕生を避ける優生思想につながる。

けれども障害をもつということは、知的であれ何であれ、人間であることの一つのあり方に他ならない。

しかし、「健常者」のためなら無辜の病んだ生命を滅ぼしてもいいという可能性のルーツは、実は、社会的、経済的、衛生的、イデオロギー的なところにあるものではない。

それは、「一見して不条理に思える病から社会を解放しよう」という超人間的な誘惑に根差しているのだ。

人々は運命に戦いを挑もうとする。
合理的な方法によって健康な新しい人類をクリエイトできると思っているのだ。

健康という至上価値にしがみつき、他のすべての価値は犠牲にしなくてはならない。」

優生思想というのはバベルの塔みたいなものだということである。

次の一節も有名だ。

『ヨハネによる福音書 9章、1-3』

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

「こうなると、もう「障碍」は何かの欠如や悲劇などではない、「自分の弱さを抱えて他者と生きる」という人間の生き方の一つなのだ。
病気や障害は「自分や自分の環境を完全にコントロールする能力が失われた状態」ではない。

神学的考察は障害に新しい見方を提供する。
障害は、神の愛するこの脆弱な世界の一部分なのだ。
障害は、象徴的な秩序を揺るがす不完全な機能不全などではない。

脆弱性は人間の存在条件そのものに属している。
身体障碍はそのことを思い出させることで、我々の健康や健康の基準をおびやかす。

弱い人間同士が相互に連帯する深いつながりを我々に再認識させる。

我々の間に障碍者がいることが、「すべての人間は脆弱であり、生きていくうちに遅かれ早かれ助けを必要とする」ことを思い出させてくれる。
人間共同体の全体に、すべての排他的差別的態度が誤りであることをつきつけてくれる。」

老いや病気や障碍による「不都合」を緩和する知識や対策やテクノロジーが生まれるのは悪いことではないけれど、「合理」にはいろいろなレベルがある。多くの人がその恩恵を受けている。

それなのに、「死すべき人間の不条理」を超える形の「超人の誘惑」に陥れば、結果的に「弱者排除」に向かうということなのだろう。

超人に向かえば弱者を排除してしまう。

神に向かえば弱者に寄り添える。

Joyeuse fête de l'Assomption!!!
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by mariastella | 2016-08-15 00:37 | 宗教
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