L'art de croire             竹下節子ブログ

ノートルダム・ド・リエス その4

(これはその3の続きです。)

ノートルダム・ド・リエスでは、1134年に、エジプトから戻った3人の騎士と黒い聖母子像と共にやって来たスルタンの王女イスメリーが、9月8日(聖母マリアの誕生日)にランの司教から洗礼を受けた。洗礼名はもちろんマリー(マリア)。

今風の感覚で想像すると、王女は騎士の一人と恋に落ちた、のだろうか。黒い聖母子像も処女母神イシスと息子ホルスの像かなんかで、騎士たちがこれこそ聖母マリアとイエス・キリストだと言ったのかもしれない。
それとも「エジプトの王女がやってきた」というところまでも、ただの「伝説」なのだろうか。

今のリエスの人のDNAを調べたらエジプト人の血統が証明されるなどであればおもしろいのだけれど。

16世紀の記録では、三人の騎士はランの修道院に寄進をした領主の息子でジャン、エクトール、アンリ。
それぞれエップ騎士団、エルサレム・ヨハネ騎士団、マルト騎士団に属していて、十字軍の使命を終えたので各自の騎士団に戻り、エジプトの王女は彼らの母親のもとで清く暮らしたけれど夭折してその地に埋葬されたという。
「16世紀の記録」というところが重要で、つまり、宗教改革が勃発したので、奇跡譚や聖母崇敬などを否定するプロテスタントに対抗して、「伝説」から「歴史記録」風に体裁が整えられたわけだ。

で、最初の奇跡が1139年で聖母像の到着からは5年あいている。これがなんとなく「事実」っぽくひびく。
どうせ「伝説」なら1134年にすぐ起こったとすればいいのに。

しかもその奇跡は、福音書の中でイエスがなしたように目が見えない人が見えるようになったとか悪魔に憑かれた人から悪魔が出ていくとかいうクラシック路線でなく、絞首刑にされた人が生き延びたというものだった。

ピエール・ド・フルシィという極貧の男が家族を養うことができずに絶望し、物乞いをする勇気もなく、隣人の家からパンや脂やワインを少しずつかすめ取るようになった。
隣人たちは彼を怪しみ、見張りをして現行犯でとらえ、殴り、牢屋へ入れて、縛り首にしようと決めた。

ピエールは聖母に祈り命乞いをした後で、首に縄をかけられて放置された。

ところが3日後に羊飼いが通りかかり、ピエールの嘆く声をきいて驚き、裁判官に通報する。

隣人たちもやってきて刃物でとどめを刺そうとするが、裁判官は彼が生きていたのは神のみ旨であるとし、釈放し、リンチした隣人たちにはピエールを介抱して、一生食料を提供するようにと命じた。

で、ピエールが生きていたのは、リエスの聖母がそばにきて彼を支えて縄が首に食い込まないようにしたからだという。

3日間も支えるなんて聖母も疲れるというか、効率が悪いというか、縄を外してやれなかったのかとかなどと考えてはいけない。

輝く光の聖母が男を支えている大きな絵が、1907年にモナコのモナコのルイ二世が後にレーニエ大公となる孫の初聖体拝領記念に寄贈されている。

今も香部屋の壁一面を占めている。

ともかくこの縛り首からの生還が最初の奇跡で、リエスは大巡礼地となった。

最初の三人の騎士が牢獄から脱したこと、ピエールが首を絞めるロープから解放されたこと、どちらも、「解放」という点では共通している。
それが聖母崇敬のきっかけとなり、それが「聖母子」にシフトして子授け祈願に特化していったのだが、冤罪、または「不当な刑罰、過剰な刑罰」をただす、という路線はそれでも一貫してあった。

もうひとつシンボリックで有名な「奇跡」のレポートがある。(続く)
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by mariastella | 2016-08-20 03:53 | フランス
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