L'art de croire             竹下節子ブログ

ノートルダム・ド・リエス その6

(これはその5の続きです)

ノートルダム・ド・リエスが中世以来いかに人気を博したかということは、各地で信心会が組織されたことでも分かる。
記録として残っているのは1407年のランス、1413 年のパリ(あまりにも加入者がおおなったので1645年にサン・シュルピス教会に支部があらたにできた)、ルーアンやエヴルーなどだ。ロワール以北が多い。

その場所の地政学上の利点のせいか、ノートルダム・ド・リエスは王侯貴族に大人気のセレブご用達巡礼地として発展していった。セレブ巡礼者の行列の華やかさも記録されている。

中世の「伝説」が反宗教改革以降の「奇跡譚」に代わってからも、ノートルダム・ド・リエスが確かな「権威」と「機能」を持ち続けたということは、フランス革命の時に「革命派」の手で黒い聖母像が燃やされたことからも分かる。

革命後、多くのカトリック教会が、革命政府に没収されて売り飛ばされたもの、倉庫になったもの、「理性の女神」の神殿になったものなどいろいろな運命をたどったが、リエスの聖母子像はそのまま「理性の女神」の神殿に据え置かれたらしい。
ノートルダム・ド・リエスの財務係はランの広場で執行人に接吻してからギロチン台に上った。司祭たちは亡命した。

1794年、「700年にわたって民衆をひれ伏させてきた偶像」(証言記録)がまだ残っていることに我慢できなかったパン職人のルノワールが、二人の共犯者とともに「神殿」の鍵を手に入れて、像を盗み出し、パンの窯に入れて焼いてしまった。

その灰をある少年が複数の箱に入れて保管した。その少年だったムッシュー・ブラトがリエスの司祭に60年後に証言した記録が残っている。

何人かの司祭は亡命先から戻って、石膏にニスを塗った小さな聖母子像を造って秘密裡に崇敬を続けた。
聖母を中心として次代の聖職者さえ育てた。後に小神学校ができている。

1802年の復活祭にヴァティカンとの和親条約によりカトリックが復活した。

小さな聖母子像は新しい大きなものに替えられ、燃やされた聖母子像の灰が「聖遺物」として足元に容れられた。
宝石をちりばめた立派な上衣を着せられた。

祭壇やルイ13世の奉納版も再建された。

19世紀はその後も政変が続いたけれど、1830年のパリのマリアご出現や1858年のルルドのマリアご出現によって、新しい巡礼地が生まれ、危機の時代を生きる民衆の宗教心の受け皿となった。

パリやルルドでは「聖母子像」ではなく、本物( ?)の聖母が子連れではなく一人で貧しく名もない若い女性に現れてメッセージを伝えるという新しいスタイルが出現したのだ。

「新規」の巡礼地ではわかりやすく派手な「奇跡」が続出した。

パリの「奇跡のメダル(不思議のメダイ))やルルドの「奇跡の泉」などという「奇跡」を期待させるアイテムもセットになった。

ノートルダム・ド・リエスにも「奇跡の泉」がある。でもそれは町のはずれにあって、小さなチャペルの扉も今は閉じられたままだ。きっと昔は「体にいい水」が沸いていたのだろうけれど、聖母子像とリンクする「お話」がうまく紡がれなかったのだ。

逆に考えると、リエスにはすでに黒い聖母子像があるからメダイや泉は必要でなく、パリやルルドでは聖母ご出現に立ち会った無名の若い娘(どちらも後に修道女、聖女というコースをたどった)の証言を担保するものとして「奇跡をもたらすアイテム」と「奇跡」が必要だったということだろう。

そうなると、リエスの聖母子像の崇敬にも、

「そうか、無名の人にだってすごい奇跡が起こり得るんだ」

という「気づき」があったのか、もはやエジプトから来たオリジナルの聖母子像ではないにも関わらず、「奇跡」が続出した。

治癒もあり、回心もあった。

1851年、ソワソンの司教は巡礼地の管理をイエズス会に委任した。

18年間寝たきりだった人が突然立ち上がり、10年間一言も話せなかった若者が言葉を取り戻し、3年間視力を失っていたアルデンヌ地方から来た少女の目が見えるようになった。

1857年には聖母子像の戴冠がピウス九世から宣言され、ナポレオン三世が寄進した鐘楼から鐘が鳴り響いた。

すべてが記録された。

「でもルルドのように奇跡の治癒の判定と司教による認定っていう動きは全くないのはなぜですか」

と私は司祭と歴史家に質問した。

答えはなかった。

老舗の巡礼地と新興の巡礼地との違いなのだろう。

老舗の巡礼地にどっぷりつかっている人たちにはかえって分からないのかもしれない。

歴史と伝統に軸足をおいているリエスは「認定」を必要としないし、もはや無神論者たちの「対抗勢力」とは見なされない。

新興の巡礼地における奇跡認定の合理性やハードルの高さは、無神論者やある種の科学者のイデオロギーに対抗する「武装」だ。

それに比べると、ノートルダム・ド・リエスの巡礼は、日本人が「無宗教」と称する人でも何の抵抗もなく初詣などで寺社仏閣に出かけてご利益を願うようなフットワークの軽さがある。

その軽さと、900年も続く信仰の濃密さとは、どういう関係があるのだろうか。

(続く)
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by mariastella | 2016-08-22 01:09 | 宗教
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