L'art de croire             竹下節子ブログ

サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』

サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』、

映画史に残ると言われるこの「黄昏のウェスタン」のノーカット版を先日arteで視聴した。

見るかどうかすごく迷ったのだけれど、結局見た。

なぜ迷ったかと言うと、前から何度も書いたように、数年来、もうホラーとかヴァイオレンスとかカタストロフィとかを扱った映画はできるだけインプットしないようにしているからだ。
単純に言って血が流れるようなのを見たくない。

私は時々悪夢をみるが、なぜだかそれを忘れずに反芻してトラウマにしてさらに次の悪夢につながるというタイプ。
それは、なぜか戦場など流血沙汰の真ん中にいることもあれば、例えば砂漠で一人きりになり絶対に救われないと分かって絶望するとか、ミサイルがあちらこちらに落ちてくるのを自宅の窓から眺めて、ああついに第三次大戦が始まったのだなあ、私はここで死ぬんだなあとつくづく思うとか、悪夢の中ですでに悪夢の内容を反芻している。

あまりにもリアルで実感をともなうつらいものばかりなのだけれど、ある時、実生活で、戦争も知らず、大けがをしたこともなければ災害や事故の現場に居合わせたことすらない私がこういうリアルな夢を見るのは何が根拠なのだと思った時に、そういう視覚的ヴァーチャル・リアリティの体験は私にとって映画にしかないことに気づいたからだ。

第二次大戦の大空襲で逃げ惑った体験のある私の母は、時々悪夢にうなされることがあったのだけれど、空襲の夢を見なくなるのにまる半世紀かかったと言っていた。私のは主として映画からくるものだから、そういう情報をシャットアウトすれば簡単に悪夢をシャットアウトできるかもしれないと思ったのだ。

そういうわけだから、映画におけるヴァイオレンスというジャンルの嚆矢となったという1969年の『ワイルドバンチ』など、真っ先に私の「検閲」にひっかかる。同じサム・ペキンパーの『わらの犬』は日本での初公開時に観ている。だからこの監督のヴァイオレンスの感じは想像がつく。

それでも、他に思うところがあって『ワイルドバンチ』を視聴した。

結果は、悪夢に燃料を与えるような怖さはまったくなかった。
女も子供も町を行く人も無差別に殺されるし、血まみれのシーンも続出なのに。

印象的なのはむしろ空の青さだとかカメラワークとか、メキシコの女性たちがテレサの遺体を運びながら長々と連祷するのに男がイライラして「やめろ、この偽善者め !」的な言葉を吐くシーン(こういう無法の場所ではキリスト教は「女子供用」と認識されているのだなあとあらためて思う。いや、女性と女の子用と言ってもいい)などだった。

武器輸送列車を襲うスリルとか、4人で200人のところに向かう時の「友情のためには命を捨てる男らしさ(と称されているもの)と哀愁」などは、まあよくできた映画のお約束の範囲内だ。

で、大量の撃ち合いはあまり怖くなかった。

むしろ、傷ついた仲間ひとりにとどめの一発が撃たれるときの方がずしんと来る。

「大量撃ち合いヴァイオレンス」というのはあまりにもリアルとかけ離れているので私の悪夢の材料にはならないらしい。

よく考えたら、こういうほぼ機械的な撃ちあいより、「倒錯」の方が悪夢の種になるのだ。
信頼していた母親が実は蛇女になっていた、というたぐいの怖さや、隠されていたものを見てしまって「見たなー」と言われるような怖さ、ヴァイオレンスも憎しみやら狂気やら倒錯に裏付けられているものは怖いけれど、『ワイルドバンチ』や『七人の侍』的なヴァイオレンス・シーンは、ゲーム的で怖くない(悪夢の材料にはならないという意味で)ということが分かった。

怖いのはプロセスなのだ。だからホラーとかサスペンス映画の方が要注意だ。

と、長々と前置きを書いたけれど、この映画が「怖くない」ということ自体に、大いに問題がある。

派手な撃ち合いシーンを見ていて、私は、

「ああ、こんなものを大量に見ているから、アメリカが今でも銃社会なのは無理ないなあ」

とか

「このシーンに一種のカタルシスを覚えたり、あるいは、自分も死ぬと分かっていても一人でも多くの奴を道連れにしてやる、と言う覚悟に潔さを覚えたりする人がたくさんいるとすると、ISのビデオやテロリストの行為に鼓舞される若者が出てきてもおかしくないなあ」

と思ったのだ。

この映画が製作された時代はアメリカがベトナム戦争の泥沼に陥った時代だ。
映画の舞台は1913年で、メキシコの軍事政権に人民のゲリラが戦いを挑んでいた時代だ。

でも、テキサスの司法官が、強盗団(ワイルドバンチ)のリーダーであるパイクをひと月以内に殺すことを条件に犯罪者を釈放することが別の伏線になっているように、内乱中のメキシコだけでなくアメリカもけっこうな「無法」ぶりだ。
つまり、「暴力」がまだ法的な装置として確立されていないような社会では、「人権」など言葉でしかなく、女たちが聖人の名を唱える「連祷」の「偽善」と何ら変わるところはないのだ。

今はこの映画から半世紀近く経とうとしている。
この映画の舞台となった時代からは丸一世紀以上経過している。

アメリカの銃社会は変わっていない。
少しでも性能のいい武器を少しでも多く手に入れようと世界中の国が虎視眈々としているのも変わらない。
非戦闘員を巻き込むリスクのある空爆なども毎日のようにニュースになる。

この映画のヴァイオレンス・シーンを見てすっきりした、とか、男の哀愁とかかっこよさとか滅びる者の美学とかを感じるのと同じ感覚で、今、ISによる軍事訓練やテロやリンチのビデオをウェブで見て「自分も死を覚悟で聖戦に発たなくては」と鼓舞され、「Let’s go.」「Why not ?」(ワイルドバンチで最後に4人が死地に向かう時の言葉)と答えて武装する若者たちが確実にいる。

「カタルシスを与えるような戦争映画を作るのは犯罪だ」という日本の映画監督の言葉を読んだけれど

それにも通じるだろう。

日本ではまだ実感がわかないけれど、ISの人集め戦略を見ていると本当に怖い。

シンボリックなのは、この映画の中で主人公のパイクが最後は背後から子供に撃たれることだ。

パキスタンで、シリアで、フランス国内の過激派モスクの中で、子供たちは「兵士」として教育される。
いや、暴力が支配する環境にいるだけで、子供たちは普通に暴力的で普通に残酷で、「殺す存在」になる様子が、この映画のそこかしこに挿入されている。

ヴァイオレンスをジャンルとして確立した映画の古典『ワイルドバンチ』。

今の時代に視聴されてこそ、いろいろなことを考えさせてくれる。
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by mariastella | 2016-08-25 00:45 | 映画
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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