L'art de croire             竹下節子ブログ

改宗と宣教の違い?

フランス語と日本語のニュアンスの差に愕然とすることが最近いくつかあった。

ひとつはカトリックに関する日本語のサイトで、エキュメニズムを批判している記事の中で日本のカトリック教会が他宗派や他宗教を招いて祭壇の前でみな並んで云々というのを批判している人のものだった。

他の宗教の人が祈りを捧げる時に十字架や聖体の前ではまずいだろうからと十字架を外したり聖体櫃の場所を移したり云々とというのはいかがなものかという話もあった。

パリの仏教のパゴダでよく行く諸宗教の平和の祈りなんかの行事では、どでかい金ぴかの仏像の前でイスラムもユダヤもキリスト教も平気でパフォーマンスをしているのを見ても誰も何も思っていなかったけれど…。

で、カトリックは他の宗派をリスペクトするあまり、自分の教会で何かをする時に遠慮しすぎている、とかいう文脈で、何しろ「改宗は教会法で禁じられているから」とあった。
まあ教会法の前後を読めば、禁止されているのは「改宗の強制」「強制的な改宗」だと分かるし、それには、帝国主義の歴史の中で、カトリック教会が行ってきた強制改宗の歴史などを反省してという文脈も分かるのだけれど。

それにしても「改宗が教会法で禁止」って、「宣教しても改宗させるな」ということだと誤解を招くのではという人がいるわけだ。

この話は2009年8月のマニラでのアジア司教協議会総会というところで教皇名代のアリンゼ枢機卿が「福音宣教は即改宗を意味しない」ことを強調した、と日本の司ある司教が報告して「改宗させることは教会法でも禁じられているという。」と書かれたことへのリアクションらしい。

実際に枢機卿が述べたのは、

 Papal delegate Cardinal Francis Arinze opened an assembly of Asian bishops in Manila, stressing the Eucharist's transforming power, and emphasising evangelisation rather than "proselytism, which is forbidden by canon law."
だそうで、

Proselytism, on the other hand "seeks to influence people to embrace a certain
religion by means that exploit their weak position or put some other pressure on
them," he said.

ということだ。

で、問題となる「教会法748」というのは

「すべての人は、神及びその教会に関する事柄の真理を探究する義務を有する。かつ、認識した真理を受け入れ、保持する神法上の義務及び権利を有する。なんびとも、他者の良心に反して、カトリック信仰を強制することは許されない。」

というもので、要するに「信教の自由」という基本的人権思想にのっとったものだ。
キリスト教が最初は迫害されてきて、後にローマ帝国の国教となるなど政治と結びついた時点から迫害する方に回ってきて、などという歴史の末に、たどりついたものだ。
そういう歴史を背負っていない宗教がメインの文化圏では、近代理念としての「信教の自由」を言われても受け止められ方の実際はわからない。

で、この「改宗」のproselytismはフランス語では「prosélytisme」。

Prosélyteはギリシャ語では新参者という意味だったけれどラテン語のproselytusになると改宗者ということになる。

(マタイによる福音書/ 23, 15
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。 )など。

これも文脈から見ると、強引に教義を押しつけるという感じである。

20世紀末からは完全に「カルトの勧誘」に使われて、ネガティヴな意味になった。

だから私などはフランス語でプロゼリティスムと聞くと、「カルト宗教の勧誘」くらいしか連想しない。

「正しい宗教」「老舗の宗教」は勧誘しないし、してはいけない、みたいな感じだ。

アメリカの教会が米軍を通じてアフガニスタンで大量に聖書を配ったり、リビアのカダフィがイタリアで聖書を配って「イスラムは全ヨーロッパの宗教にならなくてはいけない〉と言ったりしたのはプロゼリティスムだと言われる。
「強制的」というより「しつこい勧誘」というイメージだ。

でもフランスのカルト規制法などで言われるカルトの勧誘のプロゼリティスムは、基本的に弱者への勧誘を指す。キリスト教だろうが何だろうが、学校、病院、高齢者施設の中や近隣での勧誘は禁じられている。未成年や心身が弱っている人には「入信」への自由意思を行使できる能力が十全ではないとみなされるからだ。

大地震などの被災地に援助とともに布教する団体もたくさんあるし、日本でも新興宗教や新宗教と呼ばれるものが、共同体から疎外された人や社会的な不全感をもって悩んでいる人などにターゲットを絞って、(中には保育所という枠を使ってまで)「布教」「勧誘」がされることが多かった。
マーケッティング戦略としては当然かもしれない。

老舗宗教は代々の信者がいるのでそういう必要がないともいえる。

カトリックはヨーロッパの老舗宗教だが、民族宗教ではなく普遍宗教で、地縁血縁も関係なくすべての人を救う、ということになっている。
もともとヨーロッパに広まったのも、先住のギリシャ・ラテン人やケルト人のいたところに「移動」してきた「異教徒」のゲルマン人が勢力拡大戦争を通して「統合」のために採用したものだから、その後の覇権主義とも相性がよかった。
内部で分裂して大規模移民や内戦を繰り返してきたので、まあそれらの「経験資産」が豊かで、それを本当の意味で「普遍的な救い」に結びつけるように進化するだけの知性もあったということなのだろう。

だから教会法の言葉はその智慧の結集だとも見える。

まあ「信教の自由」にまつわる「良心」に反してとか「良心に従って」とかいう「良心」という言葉自体がまた大問題で、キリスト教的な特殊な含意なしには考えられないのだけれど。
 
ともかくそんな「プロゼリティスム」がただ「改宗」と訳されると、確かに変だ。

改宗という日本語をフランス語にしたらむしろconversion(回心)だ。それは「人からの勧誘」というより「神からの呼びかけ」とか「聖霊の働き」によって改宗するというイメージだろう。

日本語でも、「布教」という言葉はやめて「宣教」になったそうだが、布教だと無理やり広めるニュアンス、「宣教」だと福音を勝手に宣言するだけだから矯正するわけではないですよ、という感じなのかもしれない。

それでなくとも日本のカトリックは、信徒の世話をするという感じで積極的に外に出ていかない、ということで、宣教師だったネラン神父が新宿にバーを開いてマジョリティの日本人である「サラリーマン」のそばに行くと決心したエピソードは有名だ。別にバーで「プロゼリティスム」をするわけではなく、福音を生きる生き方を見せることで分かち合おうという形だった。

ともかく、ここ30年くらいのフランス語の「プロゼリティスム」は完全にネガティヴな言葉だ。何でもかんでも自分の主張を押し付ける人に対しても普通に使われる。

特に、21世紀に入ってからは、またここ最近は「イスラム国」がウェブを通して若者を煽って「改宗」させたり「回心」させるし、実際に勧誘したりすることと結びついてしまったので、「プロゼリティスム」の「悪」はすっかり広まってしまった。

だから、今や、帝国主義の歴史云々の前に、「カトリックはプロゼリティスムはしない」というのは、「カトリックはカルト宗教ではありませんよ」というほとんどアイデンティティにかかわるニュアンスをもっている。

こういうフランスをはじめとするキリスト教文化圏では共有されている含意が、日本語に訳されるとかなり微妙になるんだなあと思うと、宗教に関する言葉の難しさを改めて考えさせられる。

(他の言葉についてはまたそのうち書きます。)
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by mariastella | 2016-09-02 17:27 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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